目次
創業家の長男、米国とソニーへの寄り道
昭和20〜
サントリー2代目社長・佐治敬三の長男として生まれる
兵庫県川辺郡(現・川西市)に生まれる。父・敬三は創業者・鳥井信治郎の次男で、1932年ごろ養子縁組により佐治姓となった。サントリーの社長は、この鳥井・佐治の両家が交互に務めてきた。母は工学者・平賀譲の三女で、信忠を産んだ直後に21歳で亡くなった。父はその後、元住友銀行頭取・大平賢作の娘と再婚している。
慶應義塾大学経済学部を卒業
甲陽学院高校を経て進学し、国際経済学の山本登ゼミに所属した。父の跡を継ぐことを義務と考えるようになったのは在学中のことで、将来のサントリーに要るものとして頭に浮かんだのが「国際化」だった。
UCLA経営大学院を修了し、ソニー商事に入社
3月にカリフォルニア大学ロサンゼルス校の経営大学院を修了し、帰国してソニーの販売会社ソニー商事へ。父とソニー共同創業者の盛田昭夫が大学の同窓だったことから親心で決まったとも言われたが、本人も望んでの入社だった。電化製品の国内営業で、1セット100万円のテレビとビデオを誰も売れない中、百貨店の外商に同行を頼んで2セットを売っている。
本人当時の米国では、日本企業として唯一、名が通っていた。国際的に通用する会社がどのようなものかを知りたかった 出典
米国で「ミドリ」を売り、国内営業へ
昭和49〜
サントリーに入社
ソニー商事での3年間を経て、家業のサントリーに入る。経理部、生産管理部と、営業以外の部署から社内の経験を積んでいった。
米国法人サントリーインターナショナルの社長に
米国で伸び悩んでいたウイスキーに見切りをつけ、その販売原資を、この年に売り出したメロンリキュール「ミドリ」の米国での売り込みにそっくり振り向ける。現地の先輩たちは反対したが、ミドリは間もなく米国の輸入リキュールでトップ5に入るヒットとなった。
本人ウイスキー(をやってみた)がアカンのやからしゃーない。『ミドリ』を売ろう 出典
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ペプシコのボトラー、ペプコムを約200億円で買収
ミドリで結果を出した翌年、34歳でペプシコのボトラーであるペプコムの買収を手がける。同社は試算どおりの収益をサントリーにもたらし、これ以降、サントリーの米国戦略は企業の合併・買収(M&A)を中心に進められていく。米国では「日本人は子供に見られる」と、少しでも大人に見えるようにひげを伸ばし始めた。業界ではのちに「ヒゲのジュニア」と呼ばれるようになる。
1980年、同世代の人は
尾崎 将司(スポーツ選手・1947年生まれ)スランプの中、米フロリダでニクラウスのスイングを研究帰国して大阪支店長に
大阪地区で8%だったビールのシェアを10%に引き上げた。得意先の小規模店にこれ以上頼んでも伸びないと見て、営業を大規模代理店の新規開拓に集めた結果だった。帰国直後、どのバーの棚にも「オールド」ばかりが並ぶ光景に違和感を覚え、担当外ながら清涼飲料を含む食品分野の拡充を訴え続けた。
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常務取締役に就任
1982年の取締役就任を経て、常務に。この1984年の酎ハイブームを境に、サントリーの大黒柱だったオールドの販売数は減り続けていく。
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代表取締役副社長に就任
前年3月の副社長就任を経て、代表権を持つ副社長に。同じ年、いとこの鳥井信一郎が3代目の創業家社長となり、父・敬三は代表取締役会長に就いた。米国から戻って以来、社長に就くまで一貫して国内営業を担い続けている。
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父・佐治敬三が死去
敬三は肺炎のため、大阪府吹田市の大阪大学病院で亡くなった。80歳。1961年から1990年まで社長を務め、晩年まで川西市に住み続けた。
4代目社長、ビールの黒字からビーム買収へ
平成13〜
サントリー4代目社長に就任
いとこの鳥井信一郎から経営のバトンを受け継ぐ。連結売上高1兆4000億円を3兆円へ倍増させる構想を掲げ、「どの分野も5年以内に業界2位」を社内に課した。国際化と多角化という、自らこだわってきた課題をそのまま経営目標にした形だ。翌2002年3月から会長も兼ねる。
本人生まれた時から佐治敬三の息子だから。『だったら、それがどうしたの?』ってなもんでね 出典
サントリー文化財団の理事長に就任
鳥井信一郎の後を継ぐ3代目の理事長で、2010年まで務めた。この2002年には、経営難となった宣弘社を買収してサン宣弘社を設立している。宣弘社社長の小林隆吉とは、大学の広告研究会時代からの友人だった。
医薬品事業を第一製薬に売却
父・敬三が1979年に参入した医薬品事業は伸び悩んでいた。2002年12月にこの部門を分社化し、第一製薬66%・サントリー34%の共同出資会社「第一サントリーファーマ」を設けて約300人が移った。2005年、事業を第一製薬に売却する。第一製薬はのちに第一三共となり、佐治の社長時代に医薬事業本部長を務めた中山讓治は、のちに第一三共の社長兼CEOとなった。
ビール事業が参入45年目で初の黒字に
1963年に参入して以来赤字が続いたビール事業が、「ザ・プレミアム・モルツ」の大ヒットと第3のビール「金麦」の好調で初めて黒字に転じた。他社が原材料高で2月から値上げする中、9月まで価格を据え置いたのは、飲んだことのない人に売る好機と考えたからだという。この年、サッポロビールを抜いて業界3位に浮上した。社長の佐治は、業界シェアで、当時の自社シェアの2倍にあたる25%を狙うと語っていた。
本人25%を狙わなければ意味がない 出典
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持株会社サントリーホールディングスの初代社長に
持株会社体制に移り、サントリーホールディングスの社長に就く。7月には、キリンホールディングスとの経営統合の交渉が日本経済新聞に報じられている。同じ年、フランスの炭酸飲料大手オランジーナ・シュウェップス・グループの全株式を取得し、完全子会社にすることを決めた。
キリンとの経営統合交渉が決裂
国内食品最大手のキリンと2位のサントリーの交渉は、統合比率で折り合わなかった。資産査定の結果、キリンは「キリン1に対してサントリー0.5程度」を、サントリーは「1対0.9程度」を主張した。株式の9割近くを握る創業家の位置づけも争点で、佐治は決裂3日前の5日、キリンの加藤壹康社長に長文の手紙を送り、決断を迫っていた。手紙には「ルビコン川を渡ってほしい」と記したと報じられている。
本人オーナー会社の良さはパブリックカンパニーにはなかなか理解できない。サントリーの111年の歴史、創業家と会社のかかわりを見てくれれば、わかってもらえると思った 出典
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日本アドバタイザーズ協会の理事長に就任
東芝の西室泰三の後を継ぐ8代目。佐治はACジャパンの理事長も務めていた。同じ年の10月には、大阪府知事選挙への出馬を民主党から要請されたが、実業家に専念するとして辞退した。
米ビーム社の買収を完了
1月に発表した、「ジムビーム」などを持つ米国の大手蒸留酒メーカー、ビーム社の買収が完了する。買収額は約1兆6000億円で、サントリーにとって大勝負だった。統合を引き継いだ新浪剛史は2024年の会見で、5年をかけてビーム社の企業価値を買収時の3倍にあたる5兆円超まで伸ばし、ビーム社との統合は「サントリーグループが真のグローバル企業となるための試金石だった」と振り返っている。
2014年、同世代の人は
似鳥 昭雄(経営者・1944年生まれ)事業会社ニトリの社長を白井俊之に譲る会長専任となり、新浪剛史が創業家以外で初の社長に
10月1日、兼ねていた社長を退いて会長専任となり、新浪剛史が社長に就いた。ビーム社の買収完了を受け、5月の会見で「早晩、新社長を抜擢したい」と述べていた。後継に選んだのは、創業家でも内部昇格でもなく、ローソン会長の新浪だった。佐治自身は7月の会見を最後に表舞台から姿を消し、秋ごろから1年あまりは社員の前にも現れなかった。のちに、頭に大動脈瘤ができていたことを明かしている。
本人何年も前から彼を待っていたのです。彼の能力はすべてにおいてサントリーの成長に必要だと考えてのことです 出典
会長として、創業家の次代へ
平成28〜
フォーブス日本長者番付で4位
保有資産は94億米ドル(約1兆60億円)と推定された。2013年にはフォーブスの推定で個人資産107億ドル、日本の富豪2位に挙げられていた。
評伝『世襲と経営 サントリー・佐治信忠の信念』が刊行
マスコミにほとんど登場せず「日本一ミステリアスな経営者」と呼ばれてきた佐治が、ノンフィクションライター泉秀一の取材に応じ、信念や私生活を初めて語った。「空白の期間」の真相や、卒業論文に記した夢にも触れている。
創業家の鳥井信宏の社長昇格が決まり、自身は取締役会議長に
いとこ・鳥井信一郎の長男で副社長の鳥井信宏が2025年3月付で社長に昇格する人事が発表された。社長の新浪も代表取締役会長に就き、代表取締役会長に留任する佐治と2人で会長職に並ぶ体制となり、佐治は新たに取締役会議長を兼ねる。信宏は会見で、打診の際に佐治から「(新社長になって)がんばれ」と言われたと明かしている。
代表取締役会長として、鳥井信宏社長の体制を支える
2014年に自ら社長に招いた新浪剛史が2025年9月1日付で会長を辞任した後も、サントリーホールディングスの代表取締役会長と取締役会議長を務める。フォーブス日本長者番付2026では資産額1兆4800億円で4位に入った。