目次
樺太生まれ、ヤミ米を配った少年時代
昭和19〜
樺太に生まれる
父・義雄と母・みつ子の長男。下に妹が2人と弟が1人いる。父は似鳥コンクリート工業という土木会社を経営していた。
樺太から北海道へ引き揚げる
父の故郷の石狩・花畔を経て札幌へ。100棟ほどの長屋が集まる引き揚げ者住宅で育つ。母はヤミ米を売って生計を立て、本人は小学生のころから米の配達をさせられた。同級生からは「ヤミ屋、ヤミ屋」と悪口を言われ、自分の名前を漢字で書けず、極度のあがり症でもあった。
北海道工業高等学校を卒業
高校でも土日と夏休みは米の配達に追われた。高校2年の時には、札幌で開かれた『NHK素人のど自慢』に出場している(同級生の証言)。
札幌短期大学を卒業し、北海学園大学に編入
父は「高卒で十分だ」と学費を出さず、短大時代は1年の3分の2を土木工事の仕事に充てた。憧れの北海学園大学への編入は、友人と結託してカンニングで乗り切ろうとしたという。学生時代は居酒屋を回る借金の取り立てや、歌手を志して夜のクラブで歌うことで生活費を稼いだ。
北海学園大学を卒業し、広告会社を半年で解雇される
経済学部を卒業。父の土木会社で働くが、盲腸を患ったのを機に家出し、寮のある広告会社の営業職に就く。飛び込み営業で1件も成約が取れず、6カ月で解雇された。その後は叔父の会社などで土木の仕事をした。
本人営業をやったけど契約が1件も取れなくてね。それで、クビですよ(笑) 出典
30坪の家具店と、アメリカで見た豊かさ
昭和42〜
札幌で似鳥家具店を創業
サラリーマンも土木も駄目なら商売をと周りを見渡し、家具屋なら競争相手がいないと考えた。親に頭を下げて借りた100万円で、札幌市北区に30坪の店を開く。月60万円売らないと黒字にならないのに売上は40万円ほどで、客に値引きを求められると汗が吹き出て会話が成立しなかった。販売は見合いで結婚した妻・百百代が受け持ち、本人は配達と仕入れに回った。
アメリカ視察で「ロマン」を抱き、法人化
創業から3年半後に国道沿いに出した250坪の2号店では、メーカーに現金を持ち込んで問屋経由より2割安く仕入れたが、問屋から「似鳥には絶対売るな」というお触れが回り、仕入れに行き詰まる。そのころ家具業界向けのセミナーでロサンゼルスを訪れ、衣食住の品が日本の3分の1の価格で売られているのを見た。本人は会社の転機を問われてこの訪米を挙げ、ここで「欧米並みの住まいの豊かさを」というロマンを抱いたと語る。似鳥家具卸センター株式会社を設立し、専務となった。
本人それまでは行き当たりばったりで生きてきた私にとって、人生が180度変わった衝撃的な経験だった 出典
渥美俊一の本と出会い、30年計画を立てる
3号店の麻生店(札幌市北区)を開いた年。旭川のメーカーへ仕入れ交渉に行き、応接室でチェーンストア経営の本を見つけた。当時の北海道では「5店舗以上になると社長の目が届かなくなって倒産する」と言われていたが、著者の渥美俊一は「最低11店舗なければチェーンストアじゃない」と書いていた。渥美に教えを請い、1973年から2002年までを第1期とする30年計画で、100店舗・売上高1000億円を目標に掲げた。社員の前でこれを宣言すると、「社長は気が狂った。まともな会社に逃げよう」と辞めていく社員が相次いだという。
北海道の家具チェーンから本州へ
昭和53〜
代表取締役社長に就任
法人化で専務に就いてから6年後、社長に就く。同じ年に社名を株式会社ニトリ家具に改めた。渥美俊一が主宰するペガサスクラブに入ったのも34歳のころで、自社の数字すら答えられず、渥美によく叱られたという。
自動立体倉庫を備えた物流センターを札幌市手稲区へ
アメリカで見た米軍の兵站システムにヒントを得たもので、ニトリの自動立体倉庫は札幌の物流センターが最初だった。本社も物流センターに併設した。
台湾で家具の買い付けを始める
40歳のこの年、台湾へ行って販売用の家具を買い付けた。北海道内の店は15店に増え、国内の仕入れだけでは商品が足りなくなっていた。国内メーカーからの直接仕入れも相変わらず難航していた。翌年秋のプラザ合意で円高が進むと買い付けコストは大きく下がった。40代前半は台湾だけでなく東南アジアへも出向いたが、売った家具に割れが出てクレームが続き、返品も在庫も焼却して社内は反対一色になる。原因は台湾などで原木を乾燥させずに使っていたことで、中古の乾燥機械を東南アジアへ送り、出荷前の手入れを頼んで対処した。
社名を株式会社ニトリに変更
5月と6月に2社を吸収合併して平岡店と伊達店として開き、7月に社名を株式会社ニトリに改めた。
メインバンクの北海道拓殖銀行が破綻
拓銀と山一を通じて調達した50億円の社債の保証人だった山一證券も、11月24日に自主廃業する。この社債を住友信託銀行に借り換えてもらい、連鎖倒産を免れた。
マルミツを完全子会社に
1990年代後半には、海外からの輸入比率を50%にすると決め、家具だけでなくインテリア全般を国内外の調達先から仕入れる方向へ進めていた。1987年に出資し、業務提携を結んで家具部品の輸入を始めていた家具製造のマルミツ木工について、株式を買い増して100%子会社にした。
東証一部、100店舗、そして海外へ
平成14〜
東京証券取引所第一部に上場
札証から東証1部へ移る。30年計画の第1期(1973〜2002年)で、日本一に向けた目標の一つに掲げていた上場だった。
100店舗・売上高1000億円を達成
30年計画の第1期の目標を、計画より1年遅れで達成した。本人は、10年で半人前、20年で日本トップクラスを育てるつもりで社内に「ニトリ大学」を作るなど、人材育成に手を抜かなかったことを理由に挙げる。次の第2期30年計画では2032年までに売上高3兆円を掲げ、2013年に300店舗・売上高3000億円まで進んだ。
2003年、同世代の人は
佐治 信忠(経営者・1945年生まれ)ビール酒造組合の会長代表理事に台湾・高雄に海外1号店
2004年に中国に物流センターを設けたのに続き、「宜得利家居」の名で台湾の高雄市に初の海外店舗を開いた。
持株会社ニトリホールディングスの社長に
会社分割で販売部門を株式会社ニトリ、物流部門をホームロジスティクスに分け、持株会社制へ移行した。
300店舗・売上高3000億円を達成
2月に300店舗・売上高3000億円を達成した。10月には自身の名から取った「Aki-Home」の名で、アメリカ・カリフォルニア州に2店を開いた。この年は、川中美幸とのデュエット曲『めおと桜』で、歌手「ニトリアキオ」としてCDデビューも果たしている。
会長として、島忠の買収と記録
平成26〜
事業会社ニトリの社長を白井俊之に譲る
創業家以外から初めての社長。白井は倉庫係から入り、20代半ばで店長を任された社員だった。
日本経済新聞「私の履歴書」を連載
4月1日から1か月にわたり、貧しかった少年時代のいじめや、学生時代の借金取り立てのアルバイトまで書き、「面白すぎる」と評判を呼んだ。連載は8月に『運は創るもの』として刊行された。10月13日にはフランスのレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受けた。
ニトリホールディングスの会長に
持株会社の社長も白井俊之に譲った。7月には、自身の美術品コレクションをもとにしたニトリ小樽芸術村が小樽に開いた。
ホームセンターの島忠を買収
10月、DCMホールディングスとの経営統合を発表していた島忠に対し、株式公開買い付け(TOB)による買収を提示した。12月にTOBが成立し、翌年1月6日に株式の77.04%を取得して子会社とした。同じ月の『カンブリア宮殿』では、33年連続の増収増益を続ける会長として出演している。
35期連続増収増益でウォルマートの記録に並ぶ
決算会見で発表。2022年2月期は35期連続の増収増益で、上場後の32期連続は世界最大の小売企業ウォルマートの記録と並んだ。期末の店舗数は801(国内708・海外93)になった。
本人正直言って、こんなに続くとは思わなかった。運が良かった。 出典
社長への復帰と、発達障害をつづった本
令和6〜
10年ぶりに事業会社ニトリの社長に復帰
持株会社の会長は続けたまま、事業会社ニトリの会長兼社長に就いた。2020年2月から社長を務めていた武田政則は持株会社の副社長として海外事業に専念する。円安で値上げした商品の客数が伸び悩むなか、国内事業の立て直しと海外展開の加速を図る人事とされた。この期の2024年3月期決算は増収減益となり、連続増収増益の記録は36期で止まった。
島忠の会長を兼ねる
ホームセンターの島忠の会長に就いた。同じ月の21日には、「ニトリアキオ」名義で『ケッパーレ!!』など4曲を収めたCDを出している。
著書『発達障害の私だからこそ、成功できた』を刊行
74歳の時、テレビの発達障害の特集をきっかけに専門医の診断を受け、ADHDとわかったことを公表していた。祥伝社から出たこの本では、できないことの多い自分がどう成功をつかんだかを語り、妻や秘書ら周囲の人の語りも収めた。
本人ショックや驚きはなく、その診断はしっくりくるものだった 出典
全広連日本宣伝賞の松下賞に選ばれる
全日本広告連盟が広告主の部門で選んだ。コピー「お、ねだん以上。」が社会に定着したことや、似鳥国際奨学財団を通じた国内外の大学生への奨学支援が理由に挙げられた。
82歳、3社のトップを兼ねて海外出店を進める
持株会社の会長兼CEO、事業会社ニトリの会長兼社長、島忠の会長を務める。2026年3月期は、最終的なもうけとなる純利益が4期ぶりに増えた(それまでの連続増収増益の記録は経常利益で数えたもの)。6月時点の店舗数は国内873・海外212の計1085。2030年度に海外1000店を目標に掲げる。
本人一番は今までより安いこと。そして性能面でのプラスワンを考えることです。 出典