同世代1972年、同い年の滝崎 武光は、兵庫県伊丹市で三度目の事業を興す →
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たもり
赤塚不二夫の家に居候しながら密室芸でテレビに出始め、『笑っていいとも!』の司会を31年半務めた。2026年10月には、2代目の司会者として『ミュージックステーション』の放送40周年を迎えた。
昭和20年生まれ ・ 福岡県福岡市南区出身 ・ 1945– ・ 満81歳
本名森田 一義 / 所属田辺エージェンシー / 活動開始1975年 / 学歴福岡県立筑紫丘高校卒、早稲田大学第二文学部除籍
代表作を見る ↓金曜夜の『ミュージックステーション』の司会を続け、土曜夜の『ブラタモリ』では2026年も京都・平安神宮や福岡・柳川などを歩いた。2025年7月にはNHKで、京都大学の山中伸弥らとMCを務める『知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?』が始まり、2026年7月からは歌手のMISIAも加わっている。
昭和20〜
終戦からちょうど1週間後に生まれる。本名は森田一義。祖父が尊敬した政治家・田中義一から名をもらおうとしたが、上下の画数の差を気にして字を逆さにしたという。小学校に入るまで、毎日一日中坂道に立って人を観察していたことから坂道好きになり、後に「日本坂道学会」を設立している。小学3年生のとき、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、右目の視力を失っている。
福岡県立筑紫丘高校ではトランペットを吹いた。1年の浪人中は押し入れにこもって中国や韓国のラジオ放送を聴き、これが後のデタラメな外国語の芸につながる。電気通信大学を目指したが物理が克服できず、早稲田大学第二文学部に入学。モダン・ジャズ研究会では「お前のラッパは笑っている」と言われてトランペットを3日でやめ、マネージャーと司会に回った。森田をバンドマン読みにした呼び名はこの時期に付いた。
大学は学費が納められず3年次に抹籍となり、まもなく叔父に福岡へ引き戻された。朝日生命で3年近く保険外交員として働き、1970年に一般女性と結婚する。その後は旅行会社に移って系列の大分県日田市のボウリング場で支配人を務め、福岡・中洲のフルーツパーラーではバーテンダーとして働いた。
福岡を公演で訪れたジャズピアニストの山下洋輔らとタモリが初めて出会い、主催者が用意したホテルで一夜を過ごした。以後は山下や中村誠一らと一緒に遊ぶ仲になり、デタラメな外国語などの芸の噂は、彼らが根城にしていた新宿のバー「ジャックの豆の木」の常連客にも広がっていく。1972年に山下トリオに加わったサックスの坂田明によると、山下が音頭を取り、まだ無名のタモリを福岡から店に呼んだ。
1972年、同世代の人は
滝崎 武光(経営者・同じ1945年生まれ)兵庫県伊丹市で三度目の事業を興す昭和50〜
お笑いの道に進む決心をして再び上京する。芸を見たがった「ジャックの豆の木」の客らがカネを出し合い、新幹線の切符を送ったのが直接のきっかけだった。8月初旬、店での独演会を見た漫画家の赤塚不二夫が芸を気に入り、福岡に帰したくないと目白のマンションに住まわせた。居候は田辺エージェンシーに入る直前まで続き、妻も呼び寄せている。8月30日には赤塚が企画した『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』でテレビに初めて出演し、放送を見た黒柳徹子がその夜のうちに問い合わせて、次の出演が決まった。
本人俺の人生のなかで一番楽しかった 出典
所属先がなかなか決まらなかったが、放送作家の高平哲郎の紹介で田辺エージェンシーと契約する。芸能界に入る際、「誰の弟子にもならない」「組織には属さない」などの戒律を自らに掲げたという。4月に東京12チャンネルの『空飛ぶモンティ・パイソン』で正式にデビュー。芸はイグアナの形態模写、架空の中洲産業大学の教授、デタラメ言語「ハナモゲラ」など。10月からはニッポン放送の深夜番組でパーソナリティを務め、マニアックな層の支持を集めた。
本人今で言えば江頭2:50が出てきた様なもので、江頭よりもっと気持ち悪がられていた 出典
前年の1979年は多忙をきわめ、4月からはNHK『ばらえてい テレビファソラシド』に出演して幅広い層から人気を集めていた。1980年10月、ニッポン放送で平日夕方の『だんとつタモリ おもしろ大放送!』が始まる。目玉はリスナーの主婦との電話で、際どい話をなだめすかしてさばく様子に、フジテレビのプロデューサー・横澤彪が目を付けた。
日本テレビ系の土曜夜に『今夜は最高!』が始まる。毎回多彩なゲストを迎えてトークやコントを繰り広げ、1989年まで続いた。黒いタキシード姿の洗練されたイメージが定着し、この年は新幹線や朝日新聞などのCMにも出て、デビュー当初の“密室芸人”の印象を拭っていった。
昭和57〜
横澤彪が「夜の顔を昼に」と、昼の帯番組の司会に起用した。前番組『笑ってる場合ですよ!』の後を受け、新宿のスタジオアルタから平日の正午に毎日生放送する『森田一義アワー 笑っていいとも!』が10月4日に始まる。開始当初は視聴率が低迷したが、まもなく人気番組になった。
1982年、同世代の人は
福嶋 康博(経営者・1947年生まれ)商号を「エニックス」に変更し、ゲームソフト事業に参入同じ10月、テレビ朝日系で深夜番組『タモリ倶楽部』が始まった。深夜向けのタモリ本来の芸風を崩さないため、所属する田辺エージェンシーが制作に加わった。冒頭で「毎度おなじみ流浪の番組、タモリ倶楽部でございます」とあいさつするのが定番で、ミニコーナー「空耳アワー」が名物になった。
『いいとも』で司会術を磨き、芸能生活8年で『第34回NHK紅白歌合戦』の総合司会に起用された。紅白の総合司会をNHKのアナウンサー以外が務めるのは、これが初めてだった。
テレビ朝日の歌番組の司会は2度目だった。1982年の『夢のビッグスタジオ』は低視聴率でプロデューサーの皇達也が更迭され、タモリも引責する形でわずか6回で降板している。その皇に再び声をかけられ、前年10月に始まった『ミュージックステーション』の2代目司会者になった。
本人久しぶりの歌番組です。しかもテレビ朝日でございますから、どうなることか心配ですけども 出典
45歳になる前月、『いいとも』が放送2000回に達した。記念の対談で明石家さんまに途中で辞めようと思ったかと聞かれ、「初めのころはね。とにかく朝起きるのがつらくて」と答えている。この年は、ストーリーテラーを務める『世にも奇妙な物語』、テレビ東京系『タモリの音楽は世界だ』、ニッポン放送『タモリの週刊ダイナマイク』も始まった。
1990年代は、本人が「広く浅く」と言う趣味や知識を前に出した冠番組を持つようになる。フジテレビの『タモリのボキャブラ天国』は視聴者のダジャレ投稿が中心だったが、若手芸人がダジャレのネタを見せるコーナーが一大ムーブメントになり、爆笑問題、くりぃむしちゅー、ネプチューンらを送り出した。シリーズは7年続いた。
2月20日から23日まで、NHK BS2で『タモリのジャズスタジオ』が放送された。この年の元日には、井上陽水との正月特番『タモリ&井上陽水の大人のお正月』もあった。
2000年前後には熱心な鉄道ファンであることが知られ始め、『タモリ倶楽部』でも鉄道企画が続くようになる。自分の企画だった東京の山登りや江戸の地図巡りは当初「評判悪くてね」と語っていたが、その後の番組ではこうした企画が主流になった。『いいとも』では中居正広らレギュラー陣に進行を任せ、肩の力を抜いて出演するようになっていた。
本人全部自分でやらないで、下にやらせて楽をする。これが組織をデカくする近道。 出典
平成14〜
4月5日、『笑っていいとも!』が放送5,000回を達成し、「生放送単独司会世界最高記録」としてギネスブックに登録された。同じ4月からは「TVガイド」創刊40周年のCMに出演し、中国語やフランス語などのインチキ外国語を話した。
深夜番組として始まったフジテレビ『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』が7月にゴールデンの全国ネットへ移り、タモリはここから品評会の会長としてレギュラー出演した。紹介された雑学を、会長を含む5人のパネリストが「へぇボタン」を押して評価する形式だった。
8月2日に赤塚不二夫が肺炎で亡くなり、7日の告別式で生涯で初めて弔辞を読んだ。手にした紙には何も書かれていなかったことが後で分かり、話題を呼ぶ。「一言もお礼を言ったことがありません」と述べたうえで、恩人への感謝の言葉で結んだ。結びの言葉は、この年の新語・流行語大賞にもノミネートされている。
本人私も、あなたの数多くの作品の一つです 出典
2008年12月にNHKで放送されたパイロット版が、深夜ながら高視聴率と視聴者の反響を受け、2009年10月から木曜夜のレギュラー番組になった。街をブラブラ歩きながら、地理や歴史の痕跡をたどる番組で、当初は『いいとも』が続いていたためロケ地は東京近郊に限られた。2011年3月には、地理学的な視点を一般に広めたとして、番組制作チームが日本地理学会賞(2010年度・団体貢献部門)を受けている。
4月9日、都内で第2回伊丹十三賞の贈呈式が開かれた。収録のため欠席したタモリに代わり、事務所の専務がコメントを代読した。授賞理由は「テレビというメディアに『タモリ』としか名づけようのないメディアを持ち込み、独自の話芸と存在感を発揮する稀な才能」だった。
本人いまだに何かをわかったわけでもなく、ただ迷い手探りでやり続けています 出典
平成26〜
3月31日、『笑っていいとも!』が最終回を迎えた。1982年10月4日から続いた全8,054回は、生放送バラエティー番組の単独司会最多記録としてギネス記録に認定される。グランドフィナーレの客席には歴代レギュラー陣77人が並んだ。番組の終了を境に、『ブラタモリ』は舞台を全国へと広げた。この年は10月に第62回菊池寛賞を受け、大晦日の『第65回NHK紅白歌合戦』には審査員として31年ぶりに出演した。
本人だいたい3ヶ月くらいか半年くらいで終わるんじゃないかと思っていたところ、この32年になりまして。 出典
4月11日放送の「長崎 〜"坂の町・長崎" の始まりとは?〜」から、土曜夜の第4シリーズが始まった。9月19日と10月3日の放送では、故郷の福岡を訪れている。
日本テレビ系のスペシャルドラマ『天才バカボン』で主題歌を担当した。原作は、上京後の居候先だった赤塚不二夫の代表作の一つである。
新型コロナウイルスの感染拡大でロケが中断していた『タモリ倶楽部』は、6月26日の放送から「タモリ電車クラブ」の面々がリモートで集まる収録を再開した。冒頭で「ここまでしてやんなきゃいけない番組かね」と発言している。この企画は2020年7月度のギャラクシー賞月間賞を受けた。
「同一司会者による生放送音楽番組の最長放送」としてギネス世界記録に認定された。在任は2021年9月17日の放送時点で34年168日、計1365回。『いいとも』に続き、2つ目の番組での認定に「2回も頂けるなんて思っていなかった」と答え、最も印象に残る回には、ロシアのデュオ、t.A.T.u.が歌う段になって出演を取りやめた回を挙げた。
テレビ朝日系『徹子の部屋』の年内最後のゲストとして出演した。番組の最後に黒柳徹子から来年はどんな年になるかと聞かれ、「誰も予測できないですよね、これは」と考えた上で「新しい戦前になるんじゃないでしょうかね」と答えた。ネット上ではこの言葉に反響が寄せられた。
令和5〜
テレビ朝日は「放送開始から40年という節目を迎え、番組としての役割は十分に果たした」として終了を発表し、4月1日の放送で最終回を迎えた。5月には放送批評懇談会が創立60周年の記念賞を贈り、「鋭い批評性に裏打ちされた知的な笑いは変わることがありません」と評した。
『ブラタモリ』は2024年3月9日の放送でレギュラー放送をいったん終えたが、11月に東海道五十七次を3夜連続でたどる特番で戻り、2025年4月からNHK総合のレギュラー番組として復活した。番組のコンセプトはそのままに、街道を歩くシリーズものなど新しい試みも加わった。
1986年10月24日に始まった『ミュージックステーション』が放送40周年を迎え、10月23日に2時間の『ミュージックステーション 40周年スペシャル』を生放送した。GLAY、郷ひろみ、aikoら11組が出演し、GLAYは代表曲『誘惑』を披露した。
金曜夜の『ミュージックステーション』の司会を続け、土曜夜の『ブラタモリ』では2026年も京都・平安神宮や福岡・柳川などを歩いた。2025年7月にはNHKで、京都大学の山中伸弥らとMCを務める『知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?』が始まり、2026年7月からは歌手のMISIAも加わっている。
本人この番組は本当に難しくて。本番はボケてきた頭をフル回転しても追いつけない。山中先生を心から頼りにしている 出典
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