生い立ちと不動産事業からの出発
昭和22〜
北海道旭川市に生まれる
父は映画館やパチンコ店、質屋などを営む実業家だった。北海道旭川工業高等学校建築科を経て、日本大学理工学部建築学科に進学した。
火事で父の映画館が全焼、両親が離婚
経営していた映画館が火事で全焼し、その後両親は離婚。父と離れて暮らすことになり、母は映画館の隣にあった自宅を改装して食堂を開き、生計を立てた。幼い頃は両親とも経営者だったが、自身が起業に憧れることはなかった。
日本大学理工学部建築学科を卒業
地元の工業高校卒業後は「どこかで働こう」と漠然と考えていたが、高校2年の時、連絡が途絶えていた父から大学進学を勧める電話があり、上京を決意。日本大学理工学部建築学科に進み、卒業後は建築とは異なる道を模索することになる。上京後、「どんな分野でもいいから日本一になる」という夢を持つようになった。
渡米、その後インドなどアジア各地を放浪
大学卒業後、雑誌創刊を目指すも会社登記を怠ったために頓挫するという失敗(中野ブロードウェイの案内図・店舗情報誌構想)を経験。「起業して成功するにはどうすればいいか」を考え直し、1972年に日本を離れて渡米、サラリーマン家庭に住み込みハウスキーパーをするなどして3カ月以上米国に滞在した後、インド、タイ、マレーシア、香港などアジア各地も放浪した。この経験から「米国は日本の未来であり、アジアは日本の過去である」という、後の事業構想に生かす“タイムマシン経営”の着想を得た。
結婚、公団住宅の空き情報誌ビジネスを個人創業
1974年に結婚し、新居となる公団住宅を探す中で入居者の募集がいつ、どこで始まるかよく分からないという不便に着目。個人経営会社「営団社募集サービスセンター」を立ち上げ、公団住宅の空き情報を集めた情報誌の配布を事業化した。事業は好調で、翌1975年9月には法人化して代表取締役社長に就任した。
本人「入居したいがどうすればいい?」と公団に問い合わせると、「募集は新聞で告知しているので毎日チェックしてもらうしかない」との返事。何て不便なんだと感じました。
東京・虎ノ門に営団社不動産を設立
営団社募集サービスセンターの100%出資子会社として設立。翌1981年8月には商号を「営団社システム」に変更し、新宿区西新宿に移転した。
持ち帰りすし事業に参入するも3カ月で撤退、オフィスコンピューター代理店事業へ
不動産情報誌事業の成長に限界を感じ、新規事業として持ち帰りすし事業を始めるがわずか3カ月で撤退。米国で急速に普及していたコンピューターに社運を懸け、東芝のオフィスコンピューター「BP100」の代理店事業を始めると、工夫を重ねて業績を伸ばし代理店トップの売り上げを記録したこともあった。ただしこの経験から「ビジネス用の伸びしろは大きいが、今は時期尚早だ」と感じ、当時ゲーム用途が主流だったパソコンの世界に着目するようになる。
エニックス創業とドラゴンクエストの誕生
昭和57〜
— 商号を「エニックス」に変更し、ゲームソフト事業に参入
不動産情報誌事業の新規事業として、ゲームソフトの企画販売会社「エニックス」を立ち上げた。同年、賞金総額300万円(最優秀賞100万円)という高額賞金を掲げたアマチュア向け「ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を開催し、300本近い応募の中から当時高校3年生だった中村光一の『ドアドア』などを見出した。表彰式では中村と、コンテストの紹介記事を執筆していたライター・堀井雄二が出会い、これが後の『ドラゴンクエスト』開発チーム結成のきっかけとなった。堀井自身も『ラブマッチテニス』で密かに応募し、入選プログラム賞を受賞していた。不動産情報誌の会社が新人発掘型のゲーム会社へと転身した、経営者としての最大の転機である。
小西六写真工業と合弁で「小西六エニックス」を設立
同年、コンテストをきっかけに一挙に13本のゲームソフトを発売し、知名度を上げた。
任天堂と提携し、ファミリーコンピュータ市場への参入を決定
翌1985年7月に家庭用ゲーム機市場に参入した。
— 『ドラゴンクエスト』を発売
堀井雄二がシナリオとゲームデザイン、中村光一率いるチュンソフトがプログラムを担当したファミコン用RPG。国民的な人気シリーズとなり、エニックスを一躍日本有数のゲーム会社に押し上げた。以後シリーズはエニックス(後のスクウェア・エニックス)の看板コンテンツとなる。
『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』が社会現象的ヒットに
発売日には量販店前に数キロの行列ができ、学校を休んで買いに行った子どもが補導される事態となるほどの社会現象となった。RPGがパソコンマニアのジャンルから家庭用ゲーム機の主要ジャンルへと広がる契機となった。
出版事業・株式公開からスクウェアとの合併へ
平成1〜
グループ各社を吸収合併し、商号を「エニックス」に統一
小西六エニックス(当時コニカエニックス)やエニックスプロダクツなどを営団社募集サービスセンターに吸収合併し、商号を株式会社エニックスに変更した。
『月刊少年ガンガン』を創刊
収益安定化のため前年から出版ビジネスへの進出を決めており、15年近く月刊漫画雑誌の創刊で成功例がないと言われていた逆風の中、ゲーム事業で培ったブランド力を生かして一定の成功を収め、以後多くの派生誌を生んだ。ゲームグッズ事業でも「ドラゴンクエストバトルえんぴつ」が鉛筆市場の1割のシェアを獲得するヒットとなった。
ゲーム業界団体「CESA」の設立に参画
家庭用ゲームソフトメーカー各社が加盟し、後に東京ゲームショウの主催団体ともなるコンピュータエンターテインメントソフトウェア協会(CESA)を、当時スクウェア取締役だった小林宏らと共同で設立し、副会長に就任。以後、社団法人パーソナルコンピュータソフトウェア協会理事なども歴任した。
東京証券取引所一部に上場
1991年の店頭登録から株式公開企業へと成長を続け、東証一部上場を果たした。
漫画編集部門で編集者・作家の離脱が発生
『月刊少年ガンガン』の路線を巡る編集部内の対立から、出版事業部長らが退社してマッグガーデンを設立し、主力作家の一部が移籍する事態となった。
スクウェアとの合併契約を締結
11月26日、同業のスクウェアとの合併契約書を締結し、2003年4月1日付での合併を発表した。記者発表で福嶋は「8月中旬ごろ合併の話があったが、スクウェアと一緒になれるならすばらしいと思った」と経緯を語った。
— スクウェアと合併し、スクウェア・エニックス代表取締役会長CEOに就任
4月1日付でスクウェアと対等合併し、新会社「株式会社スクウェア・エニックス」が発足。エニックスが存続会社となり、福嶋は初代の代表取締役会長CEOに就任した。『ファイナルファンタジー』と『ドラゴンクエスト』という2大RPGブランドを傘下に持つ企業が誕生し、経営者としてのキャリアの集大成となった。
代表権を返上し、取締役も退任
6月19日付で代表権を返上して取締役を退任し、相談役名誉会長に就任。経営の第一線から退いた。
名誉会長として、そして次世代への恩送り
平成16〜
東南アジアを視察、カンボジアでの支援活動を模索
代表取締役辞任後、未来ある子どものために何かしたいと東南アジア各地の孤児院などを訪問。「経済的な支援だけでは貧困はなくならない」と感じ、家庭が経済的に自立すれば子どもが毎日学校に通えると考え、農業指導による支援方式を模索し始めた。
本人「貧困家庭に奨学金を渡しても、根本的な原因が解決されない限り、子どもたちは学校へ行けず、日々の暮らしのために働き続けてしまうのです」と、経済支援だけでは足りないと痛感したことを振り返っている。
カンボジアのNGO「CEDAC」と協力し、貧困家庭への農業指導支援を開始
非常に貧困な家庭がある50村を選び、2年で経済的に自立させることを目標に農業指導を開始。2年後には約600世帯の90%が自立し、子どもたちが学校に通えるようになった。同年6月には名誉会長に就任した。
新たに40村を追加、支援対象を拡大
条件を厳しくした新たな40村を加えて同様の支援を行い、70%の世帯が自立するという成果を得て、支援方式をカンボジアの他地域にも展開できる手応えを得た。
支援対象を300村に拡大、教育の啓発活動も追加
農業指導による経済的自立支援に加え、教育の重要性を伝える啓発活動も始め、村の子どもたち全員が学校に通えるよう活動の幅を広げた。同年10月には持株会社体制への移行で、スクウェア・エニックス・ホールディングス名誉会長に就任。以後も同社の筆頭株主として大きな影響力を持ち続けている。
— 秋の褒章で藍綬褒章を受章
CESA設立への尽力やゲーム業界の発展への貢献が評価され、藍綬褒章を受章した。「世界のゲーム産業拡大の礎を築き、現在も躍進している日本のゲーム業界の発展に寄与できたことはこの上ない喜び」とコメントした。エニックス創業からCESA設立に至る功績が国から公式に認められた、経営の一線を退いた後の集大成的な栄誉となった。
資産管理会社保有株の一部を売却
5月24日、スクウェア・エニックス・ホールディングスが発行済株式総数の2.70%(上限330万100株)の自己株式公開買付けを発表。福嶋の資産管理会社「福嶋企画」は保有株のうち300万株(保有割合2.45%)を応募する方針を表明し、買付期間(5月25日〜6月21日)を経て売却に応じた。残り676万3695株(保有割合5.53%)は継続保有とし、福嶋個人としては同社の筆頭株主の地位を維持している。
ゲーム史のオーラルヒストリー・アーカイブの取材に応じる
スクウェア・エニックス本社にて、幼少期の原体験から起業、エニックス創業、ドラゴンクエスト誕生、経営引退、CESA設立までの半生を語るインタビューを受けた。
出身地・旭川の新年交礼会でAI活用について語る
北海道中小企業家同友会道北あさひかわ支部の新年交礼会(旭川市)のトークセッションに登壇し、「これからはAI、3Dプリンター、ドローンなど新たな付加価値をつけられるものが伸びる。伸びる産業を見つければ多くの企業は伸びる」と、恐れず新規事業に挑戦する重要性を語った。
自宅を売却して老人ホームに入居、東京大学へAI研究費を寄付
77歳となった福嶋は、20年前に自らの思いを反映させて建てた自宅を売却し、老人ホームに入居した。週刊現代の取材に「住まないなら持っている意味がありませんから」と語る一方、AIを使った子どものいじめ問題解決の研究費として東京大学に、学校教育向けAI開発費として複数の大学に、それぞれ数千万円から数億円規模の寄付を行っていることを明かした。日本の財政への不安から資産の一部を外貨に替えたことも語っている。
本人「最近もAIを使って子どものいじめ問題を解決する研究ができないかと、東京大学に寄付しました。学校教育に使えるAIを開発するための費用など、他にもいくつかの大学に資金を寄付しています。それぞれ数億円から数千万円単位ですから、これが規模としては一番大きなおカネの使い道ですね」
名誉会長・筆頭株主として、教育支援を続ける
経営の第一線を退いて20年以上が経つ今も、スクウェア・エニックス・ホールディングスの名誉会長・筆頭株主であり続けながら、AIや教育分野への寄付活動に力を注いでいる。