目次
宇部の紳士服店に生まれ、世界を旅する
昭和24〜
山口県宇部市に生まれる
同じ年の3月、父・等が宇部で紳士服の小売店「メンズショップ小郡商事」を、会社にしないまま個人の店として開いた。1963年に会社となったこの小郡商事が、ファーストリテイリングの前身である。
大学2年の夏、客船でアメリカへ渡る
宇部高校では「クラスで後ろから5番目ぐらいの成績」だったといい、早稲田大学政治経済学部経済学科に進む。1年生で船で香港やシンガポールを回る「早稲田船上大学」に参加し、翌年、学生運動で大学が閉鎖されると、父に旅費を出してもらって客船でアメリカへ渡った。この旅で、のちに妻となる女性と出会っている。
本人やはり世界を見なければ何もはじまりませんからね。 出典
大学を卒業し、ジャスコに入社
就職活動では大手商社を受けたがことごとく落ち、3月に卒業。5月、父の勧めでジャスコ(現イオンリテール)に入った。四日市店で家庭雑貨の売り場を担当したが、9か月で辞めている。
家業に入り、ユニクロを開く
昭和47〜
宇部に戻り、家業の小郡商事に入る
半年ほど友人の家に居候したあと宇部に帰り、8月に入社、翌9月に取締役となる。店は「メンズショップOS」の名で、紳士服など男性向けの衣料が中心だった。
専務となり、7人の店員のうち6人が辞める
8月に専務取締役となる。この年、店員は7人だったが、本人と意見がぶつかり、1人を残して全員が辞めた。社長になるまでの12年の間に、洋服の青山やアオキのような郊外型の紳士服店が業績を伸ばし、後を追うのを避けて、安く日常的に着るカジュアル衣料の店を着想する。
本人商売に関して自分で全部経験することができた。販売、人の管理、仕入れ、返品、経理……。この体験が大きかった 出典
— 広島にユニクロの1号店を開く
広島市の袋町に「ユニーク・クロージング・ウェアハウス」を開く。アメリカで見た大学生協のような店という発想で、接客をせず客が棚から服を取って買い物かごに入れる売り方にし、在庫は3万点、ほとんどが1000円か1900円。並ぶのは他社から買い付けた服だった。本人が考えた早朝6時の開店には人が押し寄せ、入場を制限するほどだった。
父の後を継いで社長に
9月、父から小郡商事の社長を引き継ぎ、父は会長に回る。宇部では、地元の炭鉱から興った化学メーカー宇部興産の人員削減と自動車の普及で駅前の商店街が客足を失い、祖業の店は紳士服だけを扱っていた。
本人ただ、20代、30代は、目の前の経営をすることでいっぱいいっぱいでしたから、将来のビジョンなんてとても描けなかった。心がけていたのは、とにかく会社をつぶさないようにすることだけでした 出典
下関にロードサイド店、広島の2号店は失敗
6月、山口県下関市に初のロードサイド店となる山の田店を開き、これがその後のユニクロ店舗の原形となる。広島では1号店近くの映画館の2階に2号店を出し、広い売り場の半分ほどをハンバーガー店とプールバーにしたが、年間7000万円ほどの利益が吹き飛ぶ赤字になった。
本人僕のおごりでした。自分が思っている通りの店なら絶対にはやると思っていたのが、大失敗です 出典
香港で知った作り方と上場
昭和61〜
— 香港のジョルダーノで、製造小売の仕組みを知る
香港の下町でジョルダーノの店に入り、1枚79香港ドル(当時1500円ほど)のポロシャツに目を見張った。ユニクロで扱うポロシャツは1900円だった。その場で何枚も仕入れて宇部に持ち帰り、調べると、ジョルダーノは服を自らデザインし、卸を通さず工場から直接仕入れていた。小売店が服のデザインまで手がけて工場に発注する、製造小売業(SPA)と呼ばれる形である。ユニクロもこの後、自社で企画した服を工場に直接発注する形に移り、1995年には売上高の8割を自社企画の商品が占めるようになった。
本人なんで、どうやったら、こんな値段で売れるんだ 出典
香港に購買の事務所を置く
企画と設計は日本側のスタッフが担い、発注は香港の拠点を通して中国やベトナムの縫製工場へ直接届ける。有力な工場とは一定期間の生産ラインごと買い取る契約を結び、日本から担当者を駐在させて品質を管理した。
社名をファーストリテイリングに改める
9月、小郡商事から社名を変更。本人は、1991年に直営22店舗となった時点でカジュアルチェーンへ移ったと整理している。1992年8月期のうちに全店をユニクロに統一し、この期の売上高は143億円と前の期のほぼ2倍になる。1992年4月には宇部の紳士服の本店もユニクロ恩田店に替わり、父が店を開いてから43年で、紳士服の店はなくなった。
広島証券取引所に上場
7月、広島証券取引所に株式を上場し、出店のペースを年50店に上げる。1995年8月期には店舗数が175店に達する。1996年11月には自社企画の商品づくりを強めるため東京事務所を開き、1997年4月、東京証券取引所の市場第二部に上場した。
原宿のフリース、そして社長交代
平成10〜
— 1900円のフリースが話題になり、原宿店を開く
10月、1900円のフリースが話題を呼ぶ。11月には首都圏で初めての都心型店舗、原宿店(東京都渋谷区)を開き、東京にプレスルームも設けて雑誌への働きかけを強める。1999年2月には東京証券取引所の市場第一部銘柄に指定された。1999年8月期の売上高は前の期より33.6%増え、既存店193店の客数も23.6%増えた。会社は原宿店と雑誌掲載による認知などをその要因に挙げている。
売上高が倍増し、フリースは全50色に
2000年8月期の売上高は2289億円余りで、前の期の2倍を超えた。中間期の時点で、欠品で多くの客に迷惑をかけたことを認め、好調の一部はブームのおかげだとも話していた。前の年に850万枚を売ったフリースは、この年の秋冬に全50色へ広げる。
本人これをブームに終わらせないために何をしなければならないかが大きな課題だ 出典
ロンドンで海外進出の第一歩
海外に出る条件を、最低3000億円の売上を持つことに置いていた。9月、ロンドンとその周辺に4店を開く。英国の店は2002年11月末に21店まで増えたが初年度の売上高は25億円にとどまり、2003年6月に16店を閉じて5店に縮めた。
玉塚元一に社長を譲り、会長に
2002年8月期は上場以来初めての減収減益だった。9月、上海に2店を開き、中国では英国の経験から店ごとの採算を見ながら少しずつ広げていく。11月、1984年から務めた社長を玉塚元一に譲って会長となる。同じ11月にはSKIPの名で農作物の販売を始めたが、価格の高さや会員宅配が受け入れられず、2004年に撤退した。
ユニクロが「ヒートテック」を発売
素材には、1999年のフリース以来取引のある東レのものを使い、柳井は東レを選ぶ理由を原材料の質の高さとしている。2006年6月に東レと戦略的パートナーシップを結び、2007年10月には初めてのヒートテックキャンペーンが成功した。秋冬の販売数量は2007年の2,000万枚から2008年の2,800万枚へ増え、それでも早い時期に欠品する品目が出た。2017年までの累計販売枚数は約10億枚にのぼる。
自らの失敗をつづった『一勝九敗』を出す
11月、新潮社から『一勝九敗』を出版。家業の紳士服店を継いでからユニクロを育てるまでの数々の失敗の歴史と、株式上場や業績低迷の実態に触れた本である。
社長復帰とニューヨークの旗艦店
平成17〜
社長に復帰し、持株会社体制へ
7月14日の記者会見で、玉塚社長の退任と自身の社長復帰を発表した。玉塚は、下方修正した2005年8月期の業績予想で当初の目標だった売上高4000億円に届かなかった責任を負う形だった。減益の原因を国内ユニクロ事業の運営管理の甘さに求めた。9月に会長兼社長として社長に戻り、11月には持株会社の体制に移る。
ニューヨーク・ソーホーにグローバル旗艦店
この年の3月には全額出資の株式会社ジーユーを設立していた。前年9月に開いた香港店は約1000㎡の広い売り場で早く安定したが、米国のショッピングモールの店では、名前の知られていない市場で服を売る難しさが表れた。この対比から、各国のファッションの中心地に旗艦店を置く方針に切り替え、11月、ニューヨークのソーホーに売り場3300㎡のグローバル旗艦店を開く。
フォーブスの日本の長者番付で初めて首位
米経済誌フォーブスの「日本の億万長者」2009年版で、資産61億ドルで初めて首位に立った。景気後退で株価が低迷し、40人のうち28人が前年より資産を減らした年だった。3月にはジーユーが990円のジーンズを売り出している。
東日本大震災の救援に私財10億円
震災から数週間のうちに、会社から4億円、さらに個人の資産から10億円を救援活動に寄付した。1年後には、東北出身の従業員の何人かが津波で家族を失ったことに触れている。
連結売上高が1兆円を超える
2013年8月期の連結売上高は1兆1430億円となり、1兆円を突破。この期には香港にグローバル旗艦店を出し、インドネシアにも初めてユニクロを出店している。同じ年、米TIME誌の「世界で最も影響力のある100人」のTitans部門に選ばれた。
東京・有明の本部が稼働
東京・有明の本部が稼働。前年の2016年8月期には、経営方針に「情報製造小売業」を掲げている。2017年8月期の売上高は1兆8619億円だった。
次の経営陣と10兆円の目標
平成30〜
決算会見で、息子2人の取締役昇格を発表
2018年8月期の決算を発表。売上高は2兆1300億円で前の期より14.4%増え、過去最高の業績だった。同じ日、長男の一海と次男の康治を11月29日付で取締役に上げる人事も発表。自身以外の社内取締役を置くのは10年ぶりで、世襲への布石とみる向きに対し、会見で否定した。
本人私がいなくてもガバナンス(統治)が利くようにするため。決して経営者(社長)になるものではない 出典
母校・早稲田の「村上春樹ライブラリー」に改築費を寄付
早稲田大学が2021年4月の開館を予定していた国際文学館(通称「村上春樹ライブラリー」)について、4号館の改築費用の全額、約12億円を寄付することになったと大学が発表した。大学は、柳井が日本文化の国際発信を非常に重要と考えていると説明している。12月末には、2001年から務めたソフトバンクの社外取締役を退いている。
本庶佑と山中伸弥の研究に100億円を寄付
京都大学が会見し、柳井個人から総額100億円の寄付を受けると発表した。本庶佑のがん免疫の研究に2020年から10年間、毎年5億円、山中伸弥のもとでiPS細胞を安く作るプロジェクトに45億円、新型コロナウイルスの研究に5億円。2025年には、寄付金の一部15億円で建てた「Yanai my iPS製作所」が大阪・中之島で開所した。
長者番付の首位に2年ぶりに戻る
フォーブスジャパンが6月1日に発表した「日本長者番付2022」で、保有資産3兆500億円で首位となった。首位は2020年以来、2年ぶりだった。
国内の正社員らの年収を最大4割上げる
1月11日、国内の正社員ら約8400人を対象に、3月の報酬制度の改定で年収を最大4割上げると発表した。新入社員の初任給は月25万5000円から30万円になる。
ユニクロの社長を塚越大介に譲る
9月1日付で、ユニクロ米国のCEOとして赤字だった北米事業を黒字にした塚越大介(44歳)がユニクロの社長兼COOとなり、自身はユニクロの会長兼CEOに就く。ファーストリテイリングの会長兼社長は続ける。10月12日の決算会見では、2023年8月期の売上収益2兆7665億円を受け、今後数年で5兆円、さらに10兆円を目指すと述べた。
本人世界の主要都市にグローバル旗艦店を出店していく現在のやり方で、売上高5兆円までの道筋はほぼ見えています。これを2倍にするだけで、そんなに難しくない。10兆円は決して途方もない目標とは考えておりません 出典
塚越大介がファーストリテイリングの取締役に
10月9日の決算会見で「塚越君は(経営幹部の)有資格者の一人」と語り、ファーストリテイリング全体の経営にも責任を負ってもらう考えを示した。11月27日付で、塚越大介がファーストリテイリングの取締役に就く。
2026年、売上収益は3兆9633億円に
この年のフォーブス日本長者番付では、資産を30%以上増やしたものの2位に下がっている。10月8日に発表した2026年8月期の売上収益は3兆9633億円で、過去最高を更新した。会見では次の成長を担う市場に東南アジア、インド、オーストラリアを挙げ、世界各地で10人程度の経営チームを数多く作る考えを示した。
本人売上収益10兆円の実現が視野に入ってきた 出典