徳島の野球少年、甲子園から西鉄へ
昭和22〜
徳島県海部郡宍喰町に生まれる
本名は尾崎正司。徳島県の南端、太平洋に面した宍喰町(現・海陽町)で育った。父は体が大きく運動能力に優れた人だったと弟の健夫は語る。その健夫、直道も後にプロゴルファーとなり、三兄弟で人気を集めた。
海南高のエースとして選抜高校野球で初出場初優勝
徳島県立海南高校の投手として第36回選抜大会に出場。決勝は同じく初出場の尾道商との投げ合いで、6回に2点を先行されながら、8回に自らセンターオーバーの三塁打で同点とし、9回のスクイズで逆転。史上6校目の初出場初優勝を飾った。同年9月17日には地元・宍喰町で東京オリンピックの聖火ランナーも務めている。
西鉄ライオンズに投手として入団、プロ初登板
高卒新人ながら一軍に上がり、6月6日の東映戦で救援登板してプロ初登板。9月には先発も任された。しかし通算20登板で0勝1敗と結果を残せず、二軍では4番打者としてプレーするなど野手も試みた。一方でプロ入り後に始めたゴルフにのめり込み、1967年9月には球団から「ゴルフ禁止令」が出るほどだった。
西鉄に退団を申し出、ゴルフへの転身を決断
同期入団で同学年の親友・池永正明への対抗心が、野球を辞める理由だったと語った。在籍中には打撃コーチの花井悠からゴルフへの転向を勧められていた。球団は年を越して慰留したが翻意せず、翌1968年1月26日に任意引退選手として公示され、プロゴルファーを目指して習志野カントリークラブの研修生となる。
本人池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった。野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった 出典
「ジャンボ」誕生、頂点と大スランプ
昭和45〜
プロテストに一発合格、登録名を「将司」に
23歳でプロゴルファーに転向し、登録名を本名の「正司」から「将司」に改めた。テストには「絶対に負けない。俺にはプロ野球をやってきて鍛えた肉体が、身体能力がある」と決意して臨んだという。同年5月、習志野の月例会を取材したスポーツニッポンの記者が、就航したばかりのジャンボジェット機になぞらえて「ジャンボ」と命名した。
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日本プロで初優勝、年間5勝でスターダムへ
宮崎・フェニックスCCで開かれた日本プロゴルフ選手権。最終ラウンドの10番パー5で300ヤード超のドライバーショットから4番アイアンで2オンし、イーグルを奪って島田幸作らを振り切り、プロ2年目で初優勝した。この年はJALオープンでプレーオフに敗れるなど惜敗が続いていたが、以後は日本シリーズなど年間5勝。前年に河野高明が初めて超えた最高獲得賞金1000万円の大台を軽々と突破して記録を塗り替えた。「異次元」と評された飛距離は、日本にゴルフブームを導いていく。
本人最高の感激ですね。生まれてきて良かった 出典
マスターズで8位、日本選手初のメジャートップ10
前年はニュージーランドPGAで海外初優勝、国内9勝を挙げ、招待されたマスターズは予選落ちだった。2年連続で招待されたこの年のオーガスタは初日69でジャック・ニクラウスと並ぶ1打差2位発進。最終ラウンドは10番のダブルボギーで優勝争いから遠のいたが、通算1オーバーの8位に入り、河野高明の12位を更新するアジア選手最高位と、日本選手初のメジャートップ10を記録した。同年に現行のツアー制度が施行され、関東プロなど5勝で初代賞金王に輝いた。
青木功と組んだワールドカップで2位、日本オープン初制覇の年
11月17日に日本シリーズを終えると翌日に羽田を発ち、21日開幕のワールドカップに青木功とのペアで臨む強行軍だった。最終日に南アフリカに逆転されて団体2位、個人戦も2位。この年は日本オープンにも初優勝し、2度目の賞金王となった。翌1975年には平尾昌晃作曲の「君は今」で歌手デビューもしている。
日本シリーズ制覇、3度目の賞金王
日本シリーズを制するなど、この年3度目の賞金王に。だが翌年以降、30歳の頃から始まったドライバーの不調が徐々に深まっていく。
スランプの中、米フロリダでニクラウスのスイングを研究
1977年に3度目の賞金王となり1980年までに24勝を重ねたが、30歳の頃からドライバーが曲がり始め、前年は1勝も挙げられなかった。80年の日本ツアー開幕前にはフロリダの2試合に出場し、練習場で球を打つジャック・ニクラウスを真後ろから1時間以上見続けた。
5年に及ぶスランプ、スポーツ誌「Number」が特集を組む
1981年から85年までの5年間は3勝にとどまり、新聞に年間のOB数を数えられるほどだった。「Sports Graphic Number」は84年10月にスランプ中の尾崎を特集。当時から肉体生理学の本を読み込んで自らトレーニングを考え、オフに弟の健夫・直道や飯合肇らと研鑽したことが「ジャンボ軍団」の始まりとなる。
本人日本では、一度堕ちたプロスポーツ選手は二度と這い上がれないという風潮がある。そうでないことを見せてあげよう。おれはもっと“デカいゴルフ”を目指す 出典
復活、AON時代の頂点と100勝
昭和63〜
日本オープンで復活優勝、11年ぶりの賞金王
東京ゴルフ倶楽部での日本オープン最終日、青木功・中嶋常幸と3人が首位で並ぶ中、17番で10m以上のバーディパットを沈めて一歩抜け出した。当時はパットのイップスを抱えており、18番では70cmのパーパットを前にバックスイングで手が震え、2度アドレスをほどいた末に3度目で沈めて優勝。直後のテレビインタビューでは、この場面を「手が動かなかった」と語った。86年に4勝、87年に3勝と復調はしていたが、最高の状態にあった青木・中嶋の間に割って入ったこの勝利が本当の復活とされ、この年11年ぶり4度目の賞金王に返り咲く。以後10年近く日本のトップに君臨するきっかけとなった。
日本オープン4勝目、賞金王は通算7度に
1989年は全米オープンで6位タイに入り、国内では日本プロ・日本プロマッチプレー・日本オープンの3大会を制して2年連続の賞金王。90年に続きこの年も賞金王となり、通算7度になった。青木・中嶋との争いは、83年からの10年間で日本オープンの優勝を3人で9度分け合うほど熾烈で、世界ランキングでも89年から98年にかけて約200週にわたりトップ10に名を連ねた。
大和インターナショナルで2位に15打差、5年連続賞金王の起点に
「65」「72」「70」「63」の通算18アンダーで、2位の海外メジャー2勝ファジー・ゼラーに15打差をつけて優勝した。日本オープンも5勝目を挙げ、この年から1998年まで史上最多の5年連続賞金王を続ける。賞金王12回のうち9回は40歳を過ぎてからの達成で、丸山茂樹ら若手の挑戦をはねのける「若手の壁」であり続けた。
ダンロップフェニックス3連覇でプロ通算100勝
宮崎のダンロップフェニックスで大会3連覇を果たし、プロ通算100勝に到達した。この年はツアー8勝で10度目の賞金王。国内112勝・海外1勝の計113勝は世界のプロツアー最多記録とされ、日本プロ6勝・日本オープン5勝・日本シリーズ7勝などの国内メジャー20勝、賞金王12回とともに、いずれも歴代最多として今も残る。
本人ボクが力のあるうちに、挑戦してくれる若手が出てきてほしい 出典
5年連続12度目の賞金王、世界ランキングは自己最高の5位に
1997年5月に名古屋GC和合コースで中日クラウンズを3連覇し、同年のブリヂストンオープン優勝後には世界ランキング5位の自己最高位に立った。97年の日経カップから98年の中日クラウンズにかけて年をまたいで優勝を続け、11試合連続で1位に立つ記録も残す。この年で賞金王は5年連続、通算12回。生涯獲得賞金は歴代1位で、20億円を超えたのは片山晋呉と2人だけである。翌99年には、日本人で初めて世界ランキングの資格でマスターズに出場した。
全日空オープンで777日ぶりの優勝、55歳のツアー最年長優勝記録
札幌GC輪厚コースで藤田寛之との一騎打ちを1打差で制し、2000年のサン・クロレラクラシック以来2年1カ月ぶりのツアー94勝目。55歳7カ月29日での優勝は、2年前に自ら打ち立てた最年長記録(53歳6カ月)を更新し、1973年のツアー制施行以来の最年長優勝記録として今も残る。これが生涯最後の優勝となり、右腕を高々と突き上げたこの時の写真がのちに遺影に選ばれた。
本人この777日の間、自分の人生の中では、一番充実した日々を送れていた 出典
出典news.golfdigest.co.jpnews.golfdigest.co.jpnews.golfdigest.co.jp
レギュラーツアーにこだわった晩年
平成17〜
ゴルフ場開発の負債で民事再生法の適用を申請
ゴルフ場開発などによる50数億円の負債を抱え、東京地方裁判所に民事再生手続きを申し立てた。債務は16億円に減額決定された。この年はよみうりオープンで生涯1000試合出場に達したが、腰痛で2日目を前に棄権している。
腰の手術を受ける
座薬や痛み止めが効かないほどの腰痛で、腰部脊柱管狭窄症と脊椎分離症などと診断され、12月14日に都内の病院で手術を受けた。「手術などということは絶対にしたくない! 他の方法があればなんでもするつもり」と針灸や神経ブロックまで試した末の決断だった。
世界ゴルフ殿堂入りが決まる、日本人4人目
国際部門の投票で選出され、樋口久子、青木功、岡本綾子に次ぐ日本人4人目の世界ゴルフ殿堂入りが決まった。殿堂入りの式典は翌2011年に行われている。
つるやオープン初日に「62」、レギュラーツアー史上初のエージシュート
66歳で出場したつるやオープンの第1ラウンド、17番のイーグルなど1イーグル9バーディー2ボギーの9アンダー「62」(パー71)をマークし、年齢以下のスコアで回るエージシュートをレギュラーツアーで史上初めて達成、初日は単独首位に立った。前年は全22試合で予選落ちか棄権に終わっており、この試合が最後の予選通過となる。
70歳で2度目のエージシュート、翌月ジャンボ尾崎ゴルフアカデミーを開設
ホンマ・ツアーワールド・カップの第2ラウンドを「70」で回り、レギュラーツアーでは他に達成者のいないエージシュートを2度目達成。前年3月には日本ゴルフツアー機構の特別顧問に就いていた。11月には所属事務所が千葉市内の専用練習場に「ジャンボ尾崎ゴルフアカデミー」を立ち上げ、翌2018年8月にはジュニア育成を目的とするNPO法人JUMBOスポーツ・ソリューションを設立して相談役に。アカデミーからは1期生の西郷真央、佐久間朱莉らが育ち、原英莉花、笹生優花も指導を受けた。
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ダンロップフェニックスが最後のツアー出場に
宮崎のダンロップフェニックスに出場したが初日に途中棄権。これが最後のツアー出場となり、以後はアカデミーでの後進育成に力を注いだ。永久シード選手として、シニアツアーには最後まで一度も出場しなかった。
門下生の笹生優花が全米女子オープンを制覇、祝福のコメント
日本で指導してきた笹生優花が畑岡奈紗とのプレーオフを制してメジャー初優勝を果たし、祝福のコメントを出した。前年には原英莉花が日本女子オープンを制しており、門下生の活躍が続いた。
本人笹生の今回の優勝は彼女の育って来た辛い環境をバネにした何クソ精神の賜物であると思う。努力しかない事を一番理解し頑張って来た成果でもある。本当におめでとう 出典
闘病と死去、追悼
令和6〜
アカデミーのセレクションが最後の公の場に
1月24日に喜寿を迎え、翌月の第7回セレクションでは門下生の成長を見守った。敷地内の移動にカートを使う姿はあったが、これが最後の公の場となる。翌2025年のセレクションは発熱のため欠席し、弟の健夫・直道らが選考役を務めた。
本人体調? オレのことはいいんだよ。オレの人生はほとんど終わっているんだから。ただ終わるまでにいいものを見てみたいというのもあるよな。うちの女の子が頑張っているところを、最後に見れるというのもいいよね 出典
S状結腸がんのため78歳で死去
約1年前にステージ4のS状結腸がんと診断され、本人の強い意志で千葉市内の自宅で療養を続けていたが、23日午後3時21分に死去した。訃報は翌24日に長男の尾崎智春が発表し、葬儀は遺志により近親者のみの家族葬で営まれた。日本ツアー94勝・賞金王12回・プロ通算113勝はいずれも歴代最多。教え子の佐久間朱莉はこの年の日本女子ツアー年間女王に、西郷真央は米メジャーのシェブロン選手権を制していた。
故郷・海陽町で四十九日法要と納骨
宍喰の大日寺で四十九日法要が営まれ、弟の健夫・直道ら親族や旧友、町関係者ら約100人が参列した。生前に建てていたゴルフボール形の墓石には、本名ではなく「ジャンボ尾崎之墓」と刻まれている。3月16日には帝国ホテル東京でお別れの会が開かれ、発起人代表の青木功が「生涯のライバルはジャンボ。絶対に忘れない」と弔辞を読んだ。
日本ゴルフ殿堂プレーヤー部門の顕彰者に
日本ゴルフ協会が2026年度の日本ゴルフ殿堂顕彰者として、プレーヤー部門に尾崎を選出した。同月8日には男子ツアー開幕戦・東建ホームメイトカップの前日、選手会有志18人が追悼セレモニーを開き、尾崎が試合で使っていたオウンネームボールでティーショットを放った。一方、主宰していたジャンボ尾崎ゴルフアカデミーは「ジャンボに代わる人がいない」として3月31日で閉校し、再出発に向けた準備期間に入っている。