★ STAR TIMELINE

みふね としろう

三船 敏郎

黒澤明と16本の映画を作り、『用心棒』『赤ひげ』でヴェネツィア国際映画祭の男優賞を2度受けた。2016年、ハリウッドの歩道に名前の星が刻まれた。

1920年生まれ ・ 中国・青島出身 ・ 1920–1997 ・ 没年77歳

職業俳優・映画監督・映画プロデューサー / 学歴大連中学校卒業 / 活動期間1947年 – 1997年 / 主な受賞ヴェネツィア国際映画祭男優賞(1961年・1965年) / 設立三船プロダクション(1962年)

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1920(1920) 中国・青島に生まれる1925(1925) 一家で大連に移る1934(昭和9) 大連中学校に入り、父の写真館を手伝う1940(昭和15) 陸軍に入り、航空教育隊の写真部へ1941(昭和16) 滋賀県の八日市飛行場で、航空写真から地図を作る1945(昭和20) 特攻隊基地で少年兵を送り出し、終戦を迎える1946(昭和21) 撮影助手を志望し、東宝ニューフェイスに補欠で採用される1947(昭和22) 『銀嶺の果て』でデビュー1948(昭和23) 『酔いどれ天使』でスターとなり、撮影部への転属を諦める酔いどれ天使1950(昭和25) 女優・吉峰幸子と結婚1951(昭和26) 『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞金獅子賞1954(昭和29) 『七人の侍』で、自身の性格を元にした菊千代を演じる1957(昭和32) 『蜘蛛巣城』で、至近距離から矢を浴びる1961(昭和36) 『用心棒』でヴェネツィア国際映画祭男優賞男優賞1962(昭和37) 三船プロダクションを設立1965(昭和40) 『赤ひげ』で2度目の男優賞、黒澤との最後の作品に赤ひげ1966(昭和41) 『グラン・プリ』でハリウッド映画に初出演1967(昭和42) 『上意討ち 拝領妻始末』をプロデュースし、主演1968(昭和43) 石原プロと組んだ『黒部の太陽』が、この年最大のヒットに1969(昭和44) 『風林火山』を製作し、この年の興行成績1位に1972(昭和47) 妻・幸子が家を出て、離婚裁判へ1977(昭和52) 『日本の首領』シリーズで初めて東映作品に出る1979(昭和54) 専務が所属俳優を連れて独立、三船プロに打撃1980(昭和55) 米テレビドラマ『将軍 SHŌGUN』に出演1981(昭和56) 『将軍 SHŌGUN』でエミー賞にノミネート1982(昭和57) 娘・美佳が生まれる1984(昭和59) 撮影所を閉じ、事業を縮小1987(昭和62) 『男はつらいよ 知床慕情』の老獣医でブルーリボン賞助演男優賞1989(平成元) 『千利休 本覺坊遺文』で千利休を演じる1992(平成4) 喜多川美佳と別れ、妻・幸子と再会1995(平成7) 『深い河』が最後の出演作に、妻・幸子が死去1997(平成9) 東京都三鷹市の病院で死去死去2016(平成28) ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムに星が刻まれる2026(令和8) ゲーム『鬼武者 Way of the Sword』が発売大正以前平成
誕生 1920歿 1997
撮影助手になるつもりで東宝を訪ね、撮影部に空きが出れば移れるという言葉を信じて受けたニューフェイスの試験に、補欠で採用された。デビュー作の依頼は「僕は俳優になる気がありません」と一度断ったが、1948年に黒澤明の『酔いどれ天使』でスターとなり、撮影部への転属を諦める。黒澤と組んだ作品は16本に及び、『羅生門』は1951年にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受けた。三船自身も『用心棒』『赤ひげ』で同じ映画祭の男優賞を2度受けている。1962年には三船プロダクションを設立し、成城に撮影所を構えて『黒部の太陽』などを製作した。1979年の内紛で所属俳優の多くを失い、撮影所は1984年に閉じる。晩年は脇役で賞を受け、1997年に77歳で亡くなった。

歩み

写真館の手伝いから、航空隊の写真部へ

1920〜

大正以前
192019204月1日
満0歳

中国・青島に生まれる

父・徳造は秋田県の漢方医の息子で、満州に渡って貿易商や写真師となり、青島と営口で三船写真館を営んでいた。長男で、翌年に弟、4年後に妹が生まれる。

19251925
満5歳

一家で大連に移る

日本の租借地だった大連に移り、5歳から19歳までをこの街で過ごす。市内で転居が続き、伏見小学校、聖徳小学校、朝日小学校と転校した。

本人ちょっとコスモポリタン的な雰囲気をもった明るい風光に囲まれた清潔な街でした 出典

昭和 1926
1934昭和9
満14歳

大連中学校に入り、父の写真館を手伝う

父・徳造が病気で入院しがちになり、1929年に満州の連鎖商店街で開いたスター写真館の仕事を手伝うようになり、写真の技術にも詳しくなった。父の目が届かなくなると、盛り場で遊んで朝帰りをしたり、映画をたくさん見たりして過ごした。

1940昭和15
満20歳

陸軍に入り、航空教育隊の写真部へ

大連中学校を卒業し、徴兵検査に甲種合格して陸軍に入る。広島の宇品港で初めて日本の土を踏んだが、すぐに満州へ戻り、公主嶺の第七航空教育隊に入った。写真の経験と知識から、写真部に配属される。

1941昭和16
満21歳

滋賀県の八日市飛行場で、航空写真から地図を作る

牡丹江の第八航空教育隊を経て日本に戻り、八日市飛行場に写真工手として配属された。偵察機の航空写真を組み合わせて敵地の地図を作り、戦地には赴かなかった。上官に反抗的で、終戦まで上等兵のままだった。

1945昭和208月
満25歳終戦

特攻隊基地で少年兵を送り出し、終戦を迎える

熊本県の隈庄飛行場にあった特攻隊基地に配属され、沖縄の特攻作戦に向かう少年航空兵を教育し、出陣前に遺影を撮った。出陣の挨拶に来た少年兵にはスキヤキを食べさせ、「最後の時は『天皇陛下万歳!』なんて言うな。恥ずかしくないから『おかあちゃん!』と叫べ」と話したという。沖縄への派遣が決まった矢先、8月15日に終戦を迎える。両親はすでに亡く、弟と妹の安否も分からなかった。

撮影助手を志して、黒澤明の主演俳優に

昭和21〜

1946昭和21
満26歳入社

撮影助手を志望し、東宝ニューフェイスに補欠で採用される

横浜で弟と妹に再会し、進駐軍のコカ・コーラの原液を運ぶ肉体労働をしていたが、将来が不安で、東宝撮影所の撮影部にいた、航空教育隊時代の先輩兵の大山年治を訪ねる。撮影部は定員がいっぱいで、空きが出たら撮影部に入れるという言葉を信じ、渋々第1回東宝ニューフェイスの試験を受けた。面接で「泣いてみろ」と言われても「悲しくないのに泣けません」と返す不機嫌な態度だったが、補欠で採用される。

1947昭和22
満27歳デビュー

『銀嶺の果て』でデビュー

東宝争議で多くのスター俳優が退社し、ニューフェイスにも主演級の役が回ってきた。谷口千吉監督・黒澤明脚本の本作で、雪山に逃げ込む銀行強盗三人組の一人を演じる。依頼は一度断ったが、谷口が背広を新調して贈るという条件で説得し、三船は出演を決めた。新鮮で強烈な個性は、黒澤の目に留まる。

本人僕は俳優になる気がありません。男のくせに、ツラで飯を食うというのはあまり好きじゃないんです 出典

1948昭和23
満28歳ブレイク

— 『酔いどれ天使』でスターとなり、撮影部への転属を諦める

黒澤明監督の本作で、破滅的な生き方をするヤクザ・松永を主役の一人として演じ、スターとなった。三船と黒澤のコンビの始まりで、2人が組んだ作品は16本に及ぶ。東宝争議が激しくなったこともあり、撮影部への転属は諦め、黒澤や、本作で酔いどれの医師を演じた志村喬とともに本作の舞台実演で全国を回った。黒澤はこの頃、志村に三船の親代わりを頼んでおり、三船はデビュー後まもなく志村の自宅に下宿している。

1950昭和25
満30歳私生活

女優・吉峰幸子と結婚

東宝第1期ニューフェイスで同期だった吉峰幸子と結婚。同じ年に長男の史郎が生まれた。

『羅生門』で世界へ、ヴェネツィアで2度の男優賞

昭和26〜

1951昭和26
満31歳受賞

— 『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞

前年に公開された黒澤明監督の『羅生門』で、荒々しい盗賊・多襄丸を演じた。同作がこの年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受け、黒澤とともにミフネの名も世界に知れ渡る。同じ年度には『馬喰一代』でブルーリボン賞主演男優賞も受けている。

1954昭和29
満34歳

『七人の侍』で、自身の性格を元にした菊千代を演じる

当初は剣の達人・久蔵の役を予定していたが、脚本が進むうちに百姓と侍をつなぐ役が要ると分かり、三船の性格を元に菊千代が作られた。三船も撮影前から「これは私ですね」と感激していたという。真冬の豪雨の中、地肌に鋼の鎧を着て殺陣を演じ、翌年の英国アカデミー賞で外国男優賞の候補になった。同じ年には稲垣浩監督の『宮本武蔵』にも出ている。

1957昭和32
満37歳

『蜘蛛巣城』で、至近距離から矢を浴びる

黒澤明監督の本作で、武将・鷲津武時を演じる。最後の場面では、集められた大学弓道部の学生が至近距離から一斉に三船めがけて矢を放ち、三船は命の危険を感じたという。この年度は『蜘蛛巣城』『どん底』で毎日映画コンクール男優主演賞を受けた。

1961昭和36
満41歳受賞

— 『用心棒』でヴェネツィア国際映画祭男優賞

黒澤明監督の『用心棒』で桑畑三十郎を演じ、ヴェネツィア国際映画祭の男優賞を受ける。本気で刀を振ると速すぎて、太刀筋がカメラに映らなかったという。同じ年にはメキシコのイスマエル・ロドリゲス監督の『価値ある男』でメキシコ人の役を演じ、初めて海外作品に主演した。両作でブルーリボン賞主演男優賞を受け、以後は多くの海外映画にも出演していく。

1962昭和37
満42歳起業

三船プロダクションを設立

テレビの普及で映画産業が衰え始めるなか、所属する東宝から「君はプロダクションを作り、仕事を回すから自分のところで映画を作るように」と告げられ、自らのプロダクションを興す。第1作の『五十万人の遺産』では主演と監督を兼ね、1963年の日本映画の興行成績で7位となったが、監督作はこれ1本きりとなる。

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1965昭和40
満45歳受賞

— 『赤ひげ』で2度目の男優賞、黒澤との最後の作品に

黒澤明監督の『赤ひげ』で、ヴェネツィア国際映画祭の男優賞を再び受け、ブルーリボン賞主演男優賞も受けた。しかし2人が仕事を共にしたのはこの作品が最後となり、不仲説も流れる。黒澤の長男・久雄は不仲説を否定し、「二人は単に監督と俳優という関係ではなく、いわば同志的関係。エンジンと車体のような関係だった」と語った。三船は撮影の数年後、三船プロの事務所に黒澤に使ってもらうための部屋を作っている。

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撮影所を構えて大作を製作し、海外映画にも出る

昭和41〜

1966昭和41
満46歳海外進出

『グラン・プリ』でハリウッド映画に初出演

ジョン・フランケンハイマー監督の『グラン・プリ』で、初めてハリウッド映画に出演する。東宝からの出演料が600万円だった当時、東宝側が30万ドルを求め、相手が承知したという。同じ年、三船プロは世田谷区成城と調布市にまたがる敷地に、時代劇を撮れるオープンセットを備えた撮影所を建てている。撮影のステージ建設で示した日本映画人としての情熱が評価され、ブルーリボン賞特別賞を受けた。

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1967昭和42
満47歳

『上意討ち 拝領妻始末』をプロデュースし、主演

小林正樹監督の本作をプロデュースして主演し、作品はヴェネツィア国際映画祭でフィプレシ賞を受けた。三船はこの作品で、1967年度の芸術選奨文部大臣賞を受けている。

1968昭和43
満48歳

石原プロと組んだ『黒部の太陽』が、この年最大のヒットに

三船プロダクションと石原プロモーションが組んだ熊井啓監督作で、現場責任者・北川覚を演じる。当時は五社協定があり、東宝と日活の看板スターが組むことには大きな反発があったが、石原裕次郎の出演が認められて製作にこぎつけた。1968年最大のヒット作となる。

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1969昭和44
満49歳

『風林火山』を製作し、この年の興行成績1位に

監督に稲垣浩を迎え、中村錦之助・石原裕次郎らとともに『風林火山』を作った。その年の日本映画の興行成績1位となる。

1972昭和471月
満51歳私生活

妻・幸子が家を出て、離婚裁判へ

1月、妻の幸子が自宅を出て実家に戻り、裁判所に離婚調停を申し立てた。以後5年にわたる離婚裁判が続く。その間に三船は28歳下の女優・喜多川美佳と暮らし始めて再婚を望んだが、幸子は「籍は抜かない。私は一生、三船敏郎の妻です」と語って最後まで離婚に応じなかった。

1977昭和52
満57歳

『日本の首領』シリーズで初めて東映作品に出る

中島貞夫監督の『日本の首領 野望篇』で関東同盟理事長・大石剛介を演じ、1978年にかけてのシリーズで初めて東映の作品に出演した。

専務の独立と撮影所の閉鎖、脇役での受賞

昭和54〜

1979昭和54
満59歳経営危機

専務が所属俳優を連れて独立、三船プロに打撃

東宝時代から付き添ってきた田中寿一が、竜雷太、多岐川裕美、勝野洋、中野良子ら所属俳優を連れて三船プロから独立し、田中プロモーションを設立した。田中との争いは法廷に持ち込まれ、最終的に田中が謝罪して和解する。一方で三船は、辞めていくスタッフを責めずに送り出した。ただ、三船プロは経営面に打撃を受けた。同じ年、スティーヴン・スピルバーグ監督の『1941』に出演している。

1980昭和55
満60歳

米テレビドラマ『将軍 SHŌGUN』に出演

将軍役で出演した。米国で最もよく知られた三船の出演作となり、ミフネ=サムライのイメージが固まる。このドラマで日本の文化に興味を持ったアメリカ人も多かったという。

1981昭和56
満61歳

『将軍 SHŌGUN』でエミー賞にノミネート

将軍役で、プライムタイム・エミー賞の主演男優賞(リミテッド・シリーズ/テレビ映画部門)にノミネートされた。

1982昭和57
満62歳私生活

娘・美佳が生まれる

喜多川美佳との間に娘が生まれ、喜多川の芸名「美佳」をそのまま名前に付けた。タレントの三船美佳である。

1984昭和59
満64歳

撮影所を閉じ、事業を縮小

1981年に三船芸術学院を設けて俳優や制作スタッフの育成に力を注いだが、内紛でできた穴は埋まらず、撮影所を閉じて敷地の多くを売却した。三船プロは21年間で13本の映画を製作し、撮影所としての役割を終える。この頃、付き人を連れず、ひとりで現場に入っていた。

本人動けるうちは、人を煩わせたくない 出典

1987昭和62
満67歳受賞

『男はつらいよ 知床慕情』の老獣医でブルーリボン賞助演男優賞

晩年は脇役が多くなり、山田洋次監督の本作で頑固者の老獣医師を演じて、ブルーリボン賞助演男優賞を受けた。同じ年には市川崑監督の『竹取物語』で竹の造翁を演じている。

本人まさか賞をいただけるとは思わなかった。寅さん(『男はつらいよ 知床慕情』)ですよね? 手応えあったかと言われても『竹取物語』と掛け持ちでちょっとしか出てなかったし、俺はああいう無骨な役しかできないし 出典

平成 1989
1989平成元
満69歳

『千利休 本覺坊遺文』で千利休を演じる

熊井啓監督の本作で千利休を演じ、その演技は国際的に絶賛された。同じ年、フランスの芸術文化勲章を受ける。

老いと別れ、没後に刻まれた星

平成2〜

1992平成4
満72歳私生活

喜多川美佳と別れ、妻・幸子と再会

1990年、アラスカでの『Shadow of the Wolf』の撮影中に体調を崩し、物忘れなどの老いの症状が出始めていた。1992年、20年以上ともに暮らした喜多川美佳と別れる。その後は長男・史郎の夫婦が世話をし、別居していた幸子とも21年ぶりに再会した。認知症が進んだ三船は妻を「おばさん」と呼んだが、幸子は介護を手伝い、寄り添った。

1995平成79月
満75歳別れ

『深い河』が最後の出演作に、妻・幸子が死去

熊井啓監督の『深い河』が公開され、これが最後の出演作となる。9月には、幸子が膵臓がんのため67歳で亡くなり、45年間の結婚生活が終わった。三船は「おばさん、死んじゃったのか…」とつぶやき、気落ちした様子だったという。

1997平成912月24日
満77歳死去

東京都三鷹市の病院で死去

多臓器不全のため、入院先の杏林大学医学部付属病院で亡くなった。77歳。フランスやイタリアの国営放送も、ニュース番組でその死をトップで報じている。9カ月後には黒澤明も、88歳で世を去った。

2016平成28
追悼

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムに星が刻まれる

ハリウッドの歩道に名前を刻んだ星のプレートが飾られ、2,594番目の星となった。日本関連では早川雪州、マコ岩松、ゴジラに続く殿堂入り。同じ年には、生涯を追ったドキュメンタリー『MIFUNE:THE LAST SAMURAI』が第3回京都国際映画祭のオープニングで上映された。

令和 2019
2026令和89月4日
没後

ゲーム『鬼武者 Way of the Sword』が発売

カプコンのシリーズ最新作となる本作では、主人公・宮本武蔵のフェイスモデルに三船が起用されている。2023年11月2日に配信された三池崇史監督のNetflixアニメ『鬼武者』でも、武蔵は三船をモデルに描かれていた。

主な出演作

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