生い立ちと修行時代
昭和49〜
広島県安芸郡熊野町に生まれる
のちの毒舌芸とは裏腹に、地元の高校(広島県立熊野高校)に通うごく普通の少年だった。
高校在学中、オール巨人に弟子入り
『EXテレビ』の企画「公開弟子審査会」(審査員は上岡龍太郎・島田紳助・オール巨人・西川のりお)に合格し、お笑いの世界へ足を踏み入れる。同時期にNSC(吉本総合芸能学院)も受験していたが、合否発表前に巨人のテレビ企画への参加が決まったため入学はしなかった。
兄弟弟子との喧嘩で謹慎
弟子入りからわずか8か月、トラブルを起こし師匠から謹慎を命じられる。順風満帆とはいかなかった。
猿岩石 ―― 大ブレイクと転落
平成6〜
同級生と「猿岩石」を結成し上京
地元の同級生・森脇和成を誘いコンビを結成。謹慎中のまま無断で師匠のもとを離れ、勝負をかけて上京する。上京当初は下北沢に住み、飲食店でアルバイトをしながら下積みを続けた。
太田プロダクションに所属しデビュー
新人オーディションに合格。プロの芸人としての一歩を踏み出す。
— 『電波少年』ヒッチハイク企画で社会現象に
ユーラシア大陸横断のヒッチハイク企画が爆発的な話題を呼び、一夜にして国民的な知名度を得る。
世間ヒッチハイクの行方が茶の間の話題となった。
師匠オール巨人と再会し、正式に破門される
ヒッチハイク企画の話題で有吉の活動継続を知った師匠オール巨人と、旅企画終了後の『オールスター感謝祭』の現場で再会。土下座して謝罪すると、師匠から「これで正式に破門や。お前も辛かったんやろ」と告げられ、1993年の謹慎以来曖昧だった師弟関係にひとつの区切りがつく。
ブームが去り、長い低迷期へ
熱狂は急速に冷め、仕事は激減。笹塚や豪徳寺で困窮した暮らしを送る。
「猿岩石」解散、ピンとして再出発
コンビを解消し、一人の芸人として再び下積みからやり直すことになる。
本人豪徳寺での記憶がすっぽり無く、最も苦しかった時期に住んでいた家も記録が無く探せなかったという。
毒舌で再び表舞台へ
平成19〜
— 『アメトーーク!』“おしゃクソ事変”
「一発屋芸人にならないための方法」を指南する企画で、ひな壇の共演者に「世間が持ってるイメージ」をアドリブで伝える中、品川祐に「おしゃべりクソ野郎」というあだ名を命名。スタジオが大爆笑となり、毒舌・イジりキャラとして再び脚光を浴びる。翌2008年3月13日には「アメトーーク! 年間流行語大賞」にこのあだ名が選出された。
本人久々に爆笑という感覚を味わった、と自賛している。
「おしゃべりクソ野郎」が流行語に
番組発の流行語大賞に選ばれ、あだ名芸が彼の代名詞となっていく。
広島県観光大使に就任
故郷からの信頼も厚く、地元の魅力を発信する役割を担う。
国民的司会者へ、そして家庭
平成25〜
「有吉反省会」レギュラー化、司会業へシフト
4月7日に「有吉反省会」がレギュラー放送を開始するなど、この頃からレギュラーが急増し、「あだ名・毒舌芸人」から「MC・司会者」へと評価が移る。
『IPPONグランプリ』初優勝
第10回『IPPONグランプリ』で初優勝を果たし、大喜利の実力も改めて示した。
主要全局に冠番組を持つ
NHK・日テレ・TBS・フジ・テレ朝・テレ東——すべての局にレギュラー冠番組を抱える稀有な存在に。
「有吉の壁」がレギュラー放送開始
2015年から不定期特番として放送されていたお笑いバラエティが、水曜19時台のレギュラー番組となった。
夏目三久さんと結婚
番組で共演していたフリーアナウンサーとの結婚を発表し、祝福を集めた。
紅白歌合戦に初出演、「白い雲のように」を歌う
猿岩石時代に叶わなかった紅白での歌唱を、26年越しに果たす。
NHK紅白歌合戦の司会に
以後3年連続で司会を務め、世代を超えて親しまれる国民的タレントとしての地位を確立する。
第一子の誕生を発表
ラジオ番組で報告した。
第二子誕生、母の死去を経て育児優先の日々へ
2023年から3年連続で紅白歌合戦の司会を務めるなど活躍を続ける中、2月に第二子の誕生を報告。3月には『有吉の深掘り大調査』『有吉ジャポンII ジロジロ有吉』の2つのレギュラー番組が終了し、空いた時間に仕事を入れず育児を優先させてもらえるよう事務所に頼んだことを明かした。5月には実母(83歳)の死去をラジオで報告し、「大往生だったかな」と胸中を語った。