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目次
大阪に生まれ、東大在学中に藤田商店を興す
昭和元〜
大阪府大阪市東淀川区に生まれる
母がキリスト教徒だったことから、「口」に「十字架」で良い言葉を語るようにと名を「田」とされた。3歳で千里山へ移る。小学校では母が教師に付け届けをせず内申書の評価が振るわなかったため、1年浪人して旧制北野中学へ進んだ。
大阪を離れ、旧制松江高校へ
北野中学を卒業すると、戦火が激しくなったことから大阪を離れ、旧制松江高校に進む。在学中に肺の病で1年休学した。
東京大学法学部に入学、GHQの通訳として働く
授業料も生活費も自分で稼ぐため、GHQ本部での通訳試験に合格し、夜間に通訳として働いた。給料は1万1800円で、当時の公務員の初任給2300円の約5倍だった。通訳の仕事で出会ったユダヤ人たちは「Jew」と軽蔑されながらも貸金業で贅沢に暮らしており、藤田は彼らと深く付き合って「ユダヤ商法」を学んだ。
本人東大進学の一番の動機は授業料の安さだった 出典
在学中に輸入雑貨店「藤田商店」を創立
東大2年の時に過分な外貨の割り当てを受けてヨーロッパへ輸入に出かけ、在学中に個人経営の貿易会社として藤田商店を始めた。のちに米マクドナルドと折半出資で日本マクドナルドを持つのがこの藤田商店で、マクドナルドは藤田商店の稼ぎ頭になった。
ブランド品の輸入と、チャーター機で守った納期
昭和35〜
藤田商店を株式会社に改組
資本金4,000万円、社員15名で株式会社藤田商店とし、ロンシャンやクリスチャン・ディオールのハンドバッグ、旅行鞄、衣料品といった流行の最先端の商品の輸入を始めた。ブランド商品の輸入の先駆けとなる。
ナイフとフォークの納期をチャーター機で守る
アメリカンオイルから受けたナイフとフォーク300万本の注文で、製造を頼んだ岐阜県関市の業者が田植えの時期と重なって間に合わず、船便では納期を守れなくなった。藤田は採算が合わないのを承知でボーイング707をチャーターし、期限内に届けた。次の600万本の注文でも再びチャーターしている。これで「あいつは約束を守る日本人だ」という評判が世界中のユダヤ人に伝わったという。
銀座の1号店から売上高1,000億円へ
昭和46〜
日本マクドナルドを設立し、社長に就任
1960年代半ばから渡米を重ねてハンバーガーに目をつけ、飲食業の資本自由化を経て、5月1日に日本マクドナルドを設立した。出資は米マクドナルドが50%、藤田商店と第一屋製パンが25%ずつで、のちに藤田商店と米本社の折半になる。店名は、英語の発音に近い「マクダーナルズ」を求めた米国側を押し切り、3音ずつ切れる「マクドナルド」にした。
本人日本語というのは、3音か5音か7音で成立している。3音か5音か7音で音が切れない“マクダーナルズ”では、日本人には受けない。日本で事業をしたいのなら、3音で切れる“マクドナルド”にすべきだ 出典
銀座三越に日本第1号店を開く
米国本社は車での来店を見込んで神奈川県茅ケ崎市への出店を計画していたが、藤田は「流行は銀座から始まる」として、銀座三越1階のテイクアウト専門店を押し通した。開店前は外食関係者の多くが「必ず失敗する」と見ていたが、前年に始まった銀座の歩行者天国でハンバーガーを食べ歩くのが若者の流行になり、1日の売上は100万円を超えた。日本マクドナルドはその後、1982年に外食産業の売上高で国内首位に立つ。
『ユダヤの商法 世界経済を動かす』を出版
自ら「銀座のユダヤ人」を名乗り、「78:22の法則」「金持ちから流行らせろ」などの主張を盛り込んだ。70年代を代表するベストセラーとなり、のちに実業家となる孫正義や柳井正ら多くの経営者に影響を与えた。
沖縄にフランチャイズ1号店を開く
沖縄県浦添市の牧港店がフランチャイズ第1号店として開業した。グランドオープンの日の売上は300万円を超え、マクドナルドのグランドオープン売上の世界記録になったと、店長だった中園氏は振り返る。この年、店舗数は105店に達した。
外食産業の売上高で国内首位に
直営とフランチャイズを合わせた売上高702億円で、国内の外食産業の首位に立った。80年代は毎週1、2店舗を出店し、藤田はすべての場所を下見して、グランドオープンのテープカットに必ず駆けつけていたと元社員は語る。
外食産業で初めて売上高1,000億円を超える
1984年12月期の売上高は1,080億円となり、外食産業で初めて1,000億円を超えた。13年前の開業時、藤田は「ハンバーガーを1000億円売ってみせる」と豪語し、周囲からは「あんなもの3週間でつぶれる」と笑われていた。
MTB構想と100円のハンバーガー
昭和62〜
日本トイザらスを設立
米国トイザらス社と日本マクドナルドの合弁で、アメリカのおもちゃ専門チェーン、トイザらスの日本法人を設立した。藤田は日本トイザらスの創業者に数えられる。
ブロックバスターを展開し、トイザらス1号店を開く
この年、藤田商店は米国ブロックバスター社と折半で日本ブロックバスターを設立し、レンタルビデオ事業に参入した。マクドナルド、トイザらス、ブロックバスターの頭文字から「MTB構想」と称し、ファミリー向けの健全な娯楽として展開する。12月には国内第1号店のトイザらス荒川沖店が開業した。
1000号店を出店
名古屋市瑞穂区の瑞穂通店が1000号店となった。これに先立つ1991年には、外食産業で初めて年商2,000億円に達していた。
ハンバーガーを100円で売る
9月2日からの17日間、通常210円のハンバーガーを100円で売ると、販売個数は前年同期の154万個から2,750万個に増え、来店客数は前年比46%増の4,593万人になった。翌1995年4月14日には期間を定めずにハンバーガーを130円へ値下げした。
本人原材料に輸入品を使っているハンバーガーの価格は、今後3年で半分ぐらいになっても不思議はありません 出典
フジタ未来経営研究所を開設
シンクタンクのフジタ未来経営研究所を設立し、政府税調会長だった加藤寛の紹介で竹中平蔵を理事長に指名した。藤田の部屋には「勝てば官軍」という書が飾られていたと、竹中は振り返っている。
孫正義に請われ、ソフトバンクの社外取締役に
孫正義は高校生の時に『ユダヤの商法』を読み、藤田を訪ねていた。ソフトバンクは6月の株主総会に社外取締役5名を含む取締役の選任を付議すると5月に発表し、候補に藤田が入っていた。孫によれば、依頼に藤田は「僕が孫君のお役に立つのなら喜んでお受けしたい」と即決したという。
平日半額で勝ち組と呼ばれ、赤字の中で退任
平成12〜
「平日半額セール」を始める
130円のハンバーガーを平日は65円で売り、不景気で小遣いが減った40代前後の世代も店に戻ってきた。デフレ下で業績を伸ばした日本マクドナルドは「デフレ時代の勝ち組」、社長の藤田は「ハンバーガー王」と呼ばれた。
日本トイザらスが株式を公開
日本トイザらスが日本証券業協会に店頭登録した。同年11月には国内100号店のとしまえん店が開業している。
日本マクドナルドがジャスダックに上場
7月26日にジャスダック市場に上場し、上場セレモニーで藤田はマスコットのドナルドと「株券」を披露した。その後、BSE(牛海綿状脳症)の影響で客数が減っていく。
半額セールを打ち切り、社長を退く
「インフレが来る」として平日半額セールを打ち切ると、消費者の反発を招いて客数が減り、再び値下げしてハンバーガーは59円になった。この年、日本マクドナルドの不振や自らの体調不良などから社長を八木康行に譲り、会長に退いた。2002年12月期の連結決算は23億円の純損失となった。
会長を退き、日本マクドナルドの経営から離れる
3月28日の株主総会後に会長を退任した。退任時、日本マクドナルドは全国で3000店を超えるチェーンになっていた。日本マクドナルドの最終赤字は2002年12月期・2003年12月期と2期続き、2003年12月期の純損失は71億円だった。同じ2003年、藤田商店と米マクドナルドは提携を解消し、藤田家は経営権を失い、米本社が主導する経営体制に移った。藤田商店はそれまで日本マクドナルドから1%のロイヤリティを「経営指導料」として受け取っており、解消の際には62億円の違約金も受け取った。
心不全のため死去
経営から退いた後は公の場に出る機会が少なくなり、4月21日、東京都内の病院で心不全のため78歳で亡くなった。葬儀と告別式は近親者で営まれた。