神戸の少年、秘密の自主練
昭和58〜
兵庫県神戸市西区に生まれる
神戸市立小寺小学校を経て、中学では神戸ドラゴンズ(ヤングリーグ)に所属した。
育英高校へ進学
神戸市立太山寺中学校を卒業し、育英高等学校に進学。強豪校の一員として本格的にバットを磨いていく。
2年時に春夏連続で甲子園出場、夏はベスト4
春の甲子園は1回戦で敗退したが、夏の甲子園では秋田商業を破るなどしてベスト4まで進出(準決勝で東海大浦安に敗退)。チームには夜10時にグラウンドを出るという門限があったが、栗山は帰宅したふりをして人目が減った頃に一人グラウンドへ戻り、終電まで自主練を続けていたという。この人一倍の練習量が、当時の監督に「こんなに練習できる子を見たことがない」と言わしめ、後のドラフト評価にもつながった。
ドラフト4位からレギュラーへ
平成13〜
— ドラフト4位で西武ライオンズに入団
2001年度新人選手選択会議で西武ライオンズから4巡目指名を受け、翌2002年に入団。背番号は「52」からのスタートだった。無名の高校生が、地道な練習量を評価されてプロの世界に飛び込んだ。
一軍初出場・初安打
対大阪近鉄バファローズ戦で一軍初出場を果たすと、同じ試合の7回表に小池秀郎から右前安打を放ち初安打を記録した。
初本塁打・初打点を記録
プロ4年目を迎えた2月の宮崎・南郷キャンプでは、汗と泥にまみれながら休む間もなく打ち込んでいた。そして迎えたシーズン、4月12日に初打点、翌13日の北海道日本ハムファイターズ戦で初本塁打を放ち、一軍の戦力として少しずつ出場機会を広げていった。
本人僕は不器用。とにかく練習しないとうまくならないし、試合にも出してもらえません 出典
右手有鈎骨骨折で離脱
右手有鈎骨を骨折し戦列を離れる。以降もたびたび故障と向き合いながらプレーを続けることになる。
背番号を「52」から「1」へ変更
チームの中心選手としての意識を込めて、翌2008シーズンから背番号1を背負うことになった。
最多安打と日本一、円熟期へ
平成20〜
— 初タイトルの最多安打、渡辺久信新監督のもと日本一に貢献
渡辺久信新監督のもと2番打者に定着すると、138試合で打率.317、167安打をマークし片岡易之と並んでパ・リーグ最多安打のタイトルを獲得。西武は4年ぶりのリーグ優勝と日本一に輝き、栗山も自身初のベストナインに選出された。地道な積み重ねがチームの主力としての結果に結びついた最初の年となった。
外野手として球団史上初の144試合フルイニング出場、ゴールデングラブ賞初受賞
シーズン全144試合にフルイニングで出場する鉄人ぶりを見せ、外野手として球団史上初の記録を達成。守備でもゴールデングラブ賞を初受賞し、打撃・守備両面での評価を確立した。
結婚
3歳年上の一般女性と入籍。プライベートでも新たな一歩を踏み出した。
右肘の遊離軟骨除去手術
オフに右肘の遊離軟骨を除去する手術を受ける。翌年以降も出場を重ね続けた。
中島裕之に代わりキャプテンに就任
チームの主将を任され、名実ともにチームの中心選手としての役割を担うようになる。同年8月21日には死球で左前腕を負傷し、続けていた連続試合フルイニング出場が390試合で途切れた。
通算1000安打を達成
史上271人目となる通算1000安打を記録。同年7月2日には通算1000試合出場も達成し、レギュラーとしての地位を確固たるものにした。
通算1500安打、プロ15年目で初のオールスター出場
6月19日に通算1500安打(史上120人目)を達成。7月4日にプロ15年目で初のオールスターゲーム選出が発表され、7月15日の第1戦(福岡ヤフオクドーム)で守備・打撃ともに初出場を果たし、9回に本塁打を放って敢闘賞を受賞した。長く地道に積み上げてきた実績が遅咲きながら選出という形で報われた。
海外FA権を行使したうえで残留を表明
他球団への移籍も可能な海外FA権を行使したが、球団との交渉の末、西武への残留を表明。同時期にFAで他球団へ移る選手が相次ぐ中での「宣言残留」だった。
本人その選択肢を断つことが、『これからもライオンズのユニフォームを着て野球をやりたい』という思いの、最高の意思表示になるのかなと 出典
生え抜き初の2000安打、記録の積み上げ
平成29〜
通算1500試合出場を達成も翌日に負傷、指名打者・代打中心に
史上187人目となる通算1500試合出場を達成した翌8日、右足を負傷。以降は外野の出場機会が減り指名打者・代打での起用が中心となって、10年ぶりに規定打席未到達に終わった。
通算100本塁打を達成
史上295人目となる通算100本塁打を記録。長打力よりも安打を積み重ねるタイプの打者として、着実に記録を伸ばし続けた。
指名打者部門でベストナイン受賞
外野守備から指名打者へ役割を移しながらも打撃で結果を残し、指名打者部門でのベストナインを受賞。外野手時代と合わせ通算4度目のベストナインとなった。
— 西武生え抜き選手として初の通算2000安打を達成
史上54人目となる通算2000安打を記録し、西武ライオンズの生え抜き選手としては球団史上初めての到達となった。同年6月12日には通算2000試合出場も達成しており、20年近くにわたり同じチームで積み上げてきた記録がここで大きな節目を迎えた。
通算400二塁打を達成
史上15人目、球団では初となる通算400二塁打を記録。40代に入ってもなお記録を積み増し続けた。
引退表明、25年間の集大成
令和7〜
通算3000塁打を達成
球団生え抜き選手としては2人目となる通算3000塁打を記録。引退を表明する前の、現役として記録を伸ばし続けていた最中の出来事だった。
来季限りでの現役引退を表明
2025年シーズンは出場11試合・2安打・打率.087と大きく数字を落とし、年俸は2000万円減の6000万円で契約更改。その直後、埼玉県所沢市の球団事務所で会見し、プロ25年目となる2026年シーズン限りでの現役引退を表明した。「ファンの皆さんの支えでここまで来られた。感謝の気持ちを感じてもらえれば」と語り、「全てを出し尽くして必ず優勝する。その一員として頑張っていく」と最後のシーズンへの思いを語った。
本人ファンの皆さんの支えでここまで来られた。感謝の気持ちを感じてもらえれば。 出典
一軍昇格、23年連続安打で通算2151安打
開幕は二軍でスタートしたが、4月18日に一軍昇格すると代打で今季初安打を放ち、同期入団の中村剛也と並ぶ23年連続安打・通算2151安打目を記録した。その後は打撃不振により5月下旬に再び二軍降格となった。
— 本拠地ベルーナドームで引退試合、25年間の現役生活に幕
楽天戦に「6番・指名打者」で先発出場し、8回2死の第4打席で楽天・泰勝利から中前打を放ち、通算2152安打目を記録。試合を前に都内で引退会見が開かれ、ファンクラブ会員630人が抽選で招かれたほか、恩師である渡辺久信元監督・田邊徳雄コーチも同席した。試合後、本拠地ベルーナドームでの引退セレモニーでは後藤高志オーナー、岸孝之、炭谷銀仁朗、中村剛也ら現役選手、中島宏之・片岡保幸・野茂英雄らから花束が贈られ、栗山は「今もこれからもライオンズの栗山です。25年間、本当にありがとうございました」と締めくくった。西武ライオンズ一筋25年、通算2152安打・128本塁打・打率.277で現役生活を終えた。
本人本当にいよいよこの日が来たという気持ちと、それでもまだ実感が湧かないなという気持ちが入り混じっています。 出典
初の著書「獅子貫徹」が発売予定、今後の進路は未定のまま新たな一歩へ
野球人生を初めて綴った著書「獅子貫徹 ライオンズ一筋25年、理想の打撃を追い求めて」が2026年9月26日に発売予定。引退会見では今後の進路について明言を避けており、指導者としての将来を含めた具体的な進路はまだ決まっていない。