バンドマン時代
昭和7〜
横浜市に生まれる
浅野学園(現・浅野中学校・高等学校)時代からサークルでバンド活動に打ち込み、1948年にはワイキキ・ハワイアンズを結成した。
学生バンド「ワゴン・マスターズ」でギタリストとして活動
明治大学商学部在学中、小坂一也、井原高忠らとともに結成された学生バンド、ワゴン・マスターズにスカウトされギタリストを務めた。
「スウィング・ウエスト」を結成しリーダーに
文化放送でのアルバイトを経て、渡辺プロダクション傘下でバンド「スウィング・ウエスト」を結成しリーダーとなる。田辺昭知(のちのザ・スパイダース)がドラムを担当していた。自らプレイヤーとして芸能界の内側を知った経験が、のちの目利きの原点となった。
渡辺プロダクションを脱退
所属していた渡辺プロダクションから独立の道を選ぶ。プレイヤーとしてでなく、マネジメント側での再出発を模索する時期に入った。
堀プロダクション創業とスター発掘
昭和35〜
東洋企画に参画するも内紛で追放される
銀座のジャズ喫茶「銀座ACB」のオーナー・谷富次郎の依頼を受け、谷や相澤秀禎(のちサンミュージック創業)らとともに東洋企画を設立。専務として実権を握り、歌手・佐々木功のマネジメントを担当し軌道に乗せるが、興行方針を巡りオーナーの谷と対立。部屋を封鎖されるなどして会社を追われた。
堀プロダクションを設立
事務所を締め出され、それでもバンド仲間らとともに堀プロダクションを設立、代表取締役に就任した。営業・制作マネジャーを兼任しながら、後ろ盾のない状態から自力で芸能界での再出発を切った、経営者としての原点。
株式会社化し「ホリプロダクション」に改称
個人事業から株式会社に組織変更し、社名をホリプロダクションに改めた。
「2割5分経営」の哲学を得る
看板タレント・舟木一夫の父親が待遇面で口出しを始め、契約を巡ってもめた際、仲裁に入った長谷川鏡次からならぬ堪忍、するが堪忍という趣旨の教えを諭される。この一件を機に、一人のスターに依存せず幅広くタレントを揃えることの大切さを痛感し、後年これを自身の経営哲学「2割5分経営」と呼ぶようになる。
スパイダースのアメリカ進出に挑むも失敗
当初は鳴かず飛ばずだったスパイダースの一発逆転を狙い、アメリカ西海岸でプロモーションコンサートとシングルレコード発売を敢行するが、「なんで日本で一番になっていない奴がアメリカに来るんだ」と一蹴され失敗に終わる。それでも懲りず、今度はグループでなくソロでの海外デビュー戦略へと方針を転換した。
本人でもこっちは、「日本で一番になれねぇから、アメリカに来たんだよ」っていうのが正直なところ(笑)。アメリカでは見事に大失敗しましたが、でもそこで懲りなかったのが若気の至り(笑)。 出典
大阪で和田アキ子をスカウト
大阪支社長からの連絡を受け曽根崎のゴーゴー喫茶へ赴くと、踊る客たちが歌声にダンスをやめて聴き入る少女がいた。柔道経験のある和田は、アメリカの男性にはミステリアスに映るのではという期待から「君なら世界に通じる」と口説き落とした。周囲には「大柄な女性はスターになれない」という反対の声も多かったが、意に介さなかった。結果的にアメリカ進出計画は流れたが、同年10月にデビュー。大きなヒットには至らなかったが、2年後の「笑って許して」で紅白初出場を果たすブレイクにつながった。
「スター誕生!」決戦大会で山口百恵と出会う
オーディション番組「スター誕生!」第5回決戦大会の決勝に残った13人の中から、堀は一人の少女に目をつける。この時点ではさほど強い印象は持たなかったが、翌年これを森昌子・石川さゆりとともに「ホリプロ3人娘」として売り出す方針を固めた。それが後の大スター・山口百恵であった。
「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を開始
ホリプロの社名を全国に浸透させることを狙い、タレント志望の少年少女を対象とした全国オーディションキャラバンを開始。初代チャンピオンは榊原郁恵で、以後多くのスターを輩出する仕組みへと発展した。
芸能界の企業化と株式公開
昭和54〜
山口百恵から突然の引退・結婚の報告を受ける
俳優・三浦友和との交際が知られていた百恵から「友和さんと結婚します。結婚を機に引退したいと思います」と告げられ仰天するが慰留はしなかった。翌1980年10月5日、日本武道館でさよならコンサートを行い、10日後のホリプロ創業20周年パーティーの日(10月15日)をもって正式に引退。母子家庭で育った百恵の結婚式では、堀が父親役としてバージンロードを歩いた。
ミュージカル『ピーターパン』を初演、舞台事業に進出
和田アキ子がブロードウェイ版『ピーター・パン』を観劇し、当時の堀社長に上演を勧めたことが国内公演のきっかけの一つとなった(経緯の詳細は資料により異同がある)。新宿コマ劇場25周年記念作品として、アイドルからファミリー路線への転換を模索していた榊原郁恵を主演に起用し上演した。日本初のフライング演出が話題を呼び大入りとなり、これを機に演劇も経営資源になると考え、舞台作品の制作を本格的に手がけるようになった。以後毎年上演される看板演目に育つ。
代表取締役会長に退く
社長職を後進に譲り会長職に就く。
業界初の株式公開を果たす
長男の小学校受験で、親の職業について答えた際の面接官の妙な反応がきっかけだった。経営の健全化を進め、業界で初めて株式を店頭公開。芸能プロダクションという業態の社会的地位を大きく引き上げた転機となった。
本人芸能界をヤクザな虚業でなく一般企業として社会に認めさせたい。その為には株式を店頭公開して経営の透明度を上げるしかない。 出典
社名を「ホリプロ」に改称
会長として経営の一般企業化路線を引き続き主導し、ホリプロダクションから現在の「ホリプロ」に社名を改めた。
東証2部に指定替え
1989年に自ら踏み切った株式公開の路線が実を結び、業績拡大を受けて東証2部へ指定替え。
東証1部への指定替えと日本経団連加入を果たす
東証1部への指定替えを達成し、日本経団連への加入も成し遂げた。芸能界を一般企業として社会に認めさせたいという株式公開以来の目標がここで一つの到達点を迎える。同年、経営の一線から退き取締役ファウンダーに就任。
ファウンダーとしての晩年
平成20〜
次男・堀義貴の会長就任とともにファウンダー最高顧問に
次男の堀義貴が会長を兼任するのに合わせ、堀はファウンダー最高顧問の立場に退いた。
MBOを実施し株式上場を廃止
資金ニーズがそれほどないのに上場維持コストがかさみ、経営の冒険がしにくくなるとの判断から、マネジメント・バイアウト(MBO)を実施し上場を廃止した。株式公開を業界に先駆けて進めた本人が、自ら非公開化に踏み切った決断だった。
一般財団法人ホリプロ文化芸能財団を創設
芸能文化の振興を目的とした財団を創設した。
株主総会をもって会社の役職から退く
ホリプロ創立60周年を迎えたこの年、株主総会をもって会社の役職から完全に退いた。同年10月15日、88歳の誕生日を迎えた。1960年の創業から60年、経営の一線から完全に退き名誉的なファウンダーの立場に専念する、堀にとって現役人生の締めくくりとなる節目だった。大切にしている言葉として「いい顔つくろう」「いつだって青春」を挙げている。
日本経済新聞「私の履歴書」を執筆
「ホリプロ創業者」の肩書で朝刊連載「私の履歴書」を執筆し、半生を振り返った。同年、文化功労者に選ばれた。
ファウンダーとして名を残し、健在
経営の第一線からは退いたが、2014年に設立した一般財団法人ホリプロ文化芸能財団を通じて芸能文化の振興に携わってきた。心身統一合氣道の稽古を続ける趣味人としても知られる。その半生は多くのスターの誕生とともに、芸能界の企業化の歴史そのものである。