目次
風来坊の20代
昭和24〜
岐阜県大垣市に生まれる
父は工業高校の技術科教師、母は専業主婦という家庭に育つ。テレビはNHK以外見ないようにと言われるほど堅い家風で、躾も厳しかった。「父親とは違う人生を送る」という思いを持って青春時代を過ごした。
慶應義塾大学法学部を卒業、就職先が10か月で倒産
保守的な地元や実家から抜け出したい思いで慶應義塾大学に進んだが、裕福な家庭出身の「慶応ボーイ」たちと反りが合わず、入学後2週間ほどで大学に行かなくなった。親からの仕送りも途絶え、沖仲仕(港湾労働)などで生活費を稼ぎ、1年留年して法学部政治学科を卒業。経営者になるノウハウを得ようと小さな不動産会社に入社したが、そこは原野商法を手掛ける悪徳企業で、入社10か月後に倒産した。
「泥棒市場」と現金問屋
昭和53〜
— 西荻窪に18坪の雑貨店「泥棒市場」を開業
会社倒産後は賭け麻雀で生計を立てる数年を送り、貯めた800万円を元手に東京・杉並区西荻窪でディスカウントショップを開いた。最寄り駅から遠く駐車場もない、物販には向かない立地で、看板に4文字ほどしか入らないことから奇をてらった店名にした。深夜に一人で値札貼りをしていると通行人に「店は営業しているのか」と尋ねられ、これを機に深夜営業を開始。コンビニが夜11時までだった当時、深夜12時まで開く店は評判になり、年商2億円の繁盛店になった。狭い店に床から天井まで商品を積み上げ、手描きPOPをつけた陳列が、後のドン・キホーテの「圧縮陳列」の原型となった。
本人当時はお金もありませんから、宣伝費などかけられません。しかも、お店も小さかったので『ドン・キホーテ』のように長い名前は付けられない。 出典
株式会社ジャストを設立、個人事業を法人化
個人事業だった「泥棒市場」を法人化し、卸売販売と小売販売を目的に東京都杉並区桃井に資本金300万円で設立、代表取締役社長に就いた。この会社が後のドン・キホーテ、現在のPPIHの前身となる。
現金卸売の「株式会社リーダー」を設立、問屋業に転じる
ディスカウントストア向けの問屋業に参入するため、「泥棒市場」の店舗は開業から5年ほどで他人に売却し、埼玉県和光市に卸専業の会社を設立した。「リーダー」は最盛期に年商50億円を超え、関東でトップクラスの規模の問屋に成長する。しかし現金問屋の成長には限度があると分かり、再び小売業で勝負しようと決意した。
ドン・キホーテ創業と急成長
平成元〜
— 東京・府中に「ドン・キホーテ」1号店を開業
休眠状態にしていた「ジャスト」による小売業への再参入を決意し、府中市に1号店を開いた。「泥棒市場」の反省から好立地を確保したものの、当初は月1000万円の赤字を「リーダー」の利益で補填する船出だった。従業員に独自のノウハウを教えようとしても思い通りにいかず、教えるのをやめて店舗運営の業務のほとんどを任せたのが、後の「権限委譲」の始まりになる。この店を起点にグループは35期連続の増収増益を続け、2024年6月期に売上高2兆円を超えた。
本人だったら自分がプロデューサーになって、みんなをステージに立たせればいいじゃないですか。どうしたらいいのかと迫られたとき、いったん彼らに1から10まで、とことん丸投げしてみようと。 出典
2号店「ドン・キホーテ杉並店」を開店
この時点で1号店・府中店の年間売上は20億円を突破しており、安田はドン・キホーテのビジネスモデルが成功することを確信したという。杉並店の初年度の年間売上は15億円。この頃から小売業に専念し始め、「リーダー」は外販を縮小していった。
商号を「株式会社ドン・キホーテ」に変更
同年3月に本部機能を府中市若松町へ移し、9月には「ジャスト」の商号を店名と同じ「株式会社ドン・キホーテ」に改めた。
株式を店頭登録、1998年6月に東証二部上場
株式を店頭登録し、1997年11月に本店を江戸川区北葛西へ移転。1998年6月には東京証券取引所市場第二部に上場した。同年9月にはマスコットキャラクター「ドンペン」が誕生している。葛西にいた頃は深夜2時、3時まで仕事をしていたと、安田は後に振り返っている。
深夜営業を巡り出店反対運動が起こる
店舗の深夜営業を巡って地域住民との摩擦が生じ、出店反対運動が起こった。安田はこの頃、我欲丸出しに毎日15〜16時間働きながら年商500億円が精いっぱいだったと後に振り返り、50歳前後から顧客最優先主義を打ち出して、徹底して買う側に立った発想に切り替えたと語っている。
本人地元住民とのトラブルで反対運動が続き、連続放火事件なども起きました。当時は最も悪評の立った経営者だったかもしれません 出典
東証一部銘柄に指定変更
東京証券取引所市場第一部銘柄へ指定変更された。ルイ・ヴィトンからトイレットペーパーまで4万〜5万アイテムを扱い、「圧縮陳列」「深夜営業」「手書きPOP」を徹底する手法は、標準化した店で商品を整然と並べる大手チェーンストアとは異なるもので、迷路やジャングルのような導線が買い物客の楽しさを増し、客の滞留時間を長くした。
さいたま市の店舗で連続放火事件、従業員3人が死亡
12月13日夜、さいたま市緑区のドン・キホーテ浦和花月店の寝具売場で放火が発生し、店舗は全焼した。来店客が逃げ遅れていないか確認するため再び店内に入ったアルバイト店員3人が死亡し、8人が負傷。消防庁は全国約900の消防機関に量販店の立入検査を通知し、圧縮陳列に問題は無かったのかという経営責任や、営業再開に含みを持たせた対応について、安田はマスコミ各社から追及を受けた。
会長就任、M&Aと海外進出
平成17〜
社長を退任し代表取締役会長兼CEOに、12月に安田奨学財団理事長
一連の放火事件の責任を取る形で創業以来務めた社長を退き、代表取締役会長兼CEOとしてグループ全体の統括に軸足を移した。同年12月には財団法人安田奨学財団の理事長に就任。同財団は国際的人材の育成と海外諸国との友好・親善事業に取り組み、現在は公益財団法人となっている。
米国ハワイに進出、グループ初の海外事業
ハワイのダイエー3店舗の買収を皮切りに、ハワイ州での店舗運営を目的として Don Quijote (USA) を連結子会社化した。以後、日系スーパーの「マルカイ」やハワイのローカルチェーン「QSI」、カリフォルニアの高級スーパー「ゲルソンズ」など、現地企業のM&Aを主体に海外店舗を広げていく。
ppih.co.jp×2
総合スーパー「長崎屋」を子会社化
1月にDIY事業のドイトを連結子会社化したのに続き、10月に総合スーパー事業を営む長崎屋を連結子会社化し、11月には同社の取締役会長に就いた。不振の小売店舗を転換する手法でドン・キホーテの出店スピードは加速し、その後も宮崎市の老舗百貨店・橘百貨店などのM&Aで成長を続けた。
企業理念集「源流」を編纂・発行
企業原理である「顧客最優先主義」を軸にグループの理念を自ら編纂し、企業理念集「源流」として発行した。同年6月には、卸売機能がドン・キホーテの内部に事実上組み込まれていた「株式会社リーダー」を清算している。
純粋持株会社体制へ移行、ドンキホーテホールディングス発足
7月にシンガポールへ海外事業持株会社 Pan Pacific International Holdings Pte. Ltd. を設立し、9月には北米・ハワイでスーパーを展開するマルカイコーポレーションを連結子会社化。12月、会社分割でグループ経営管理を除く全事業を新設の「株式会社ドン・キホーテ」に承継し、商号を「株式会社ドンキホーテホールディングス」に変更して純粋持株会社体制に移った。
引退とシンガポールでの第二創業
平成27〜
経営方針説明会で「引退」を表明
2月5日の経営方針説明会の席上で突然「引退」を口にし、6月末に大原孝治社長へCEO職を譲ってグループ会社すべての取締役を退くと明らかにした。1号店を開いた1989年以降、2014年6月期まで25年連続の増収増益を続け、売上高は6000億円を超えていた。「ドンキはカリスマを必要としない会社になってほしい」と語り、20人以上の幹部を「次期取締役候補」として紹介した。
本人かねて満65歳までの引退を決めていた。当初計画から1年遅れにはなるが、気力、体力ともに十分なうちに引退することが、ドンキの長期繁栄につながる絶対条件だ 出典
— 会長兼CEOを退任し、シンガポールへ移住
ドンキホーテホールディングスの代表取締役会長兼CEOを退任して創業会長兼最高顧問となり、アジア事業の最高責任者として拠点をシンガポールに移した。移住した当初は新しく商売を始める気はなかったが、現地で日本の食品が日本の2〜4倍の値で売られ、中間の流通業者が潤う「ハーモニープライス」として当たり前に受け止められていることを知って憤る。長年リテールのキャリアを積んできた自分だからこそできる社会貢献であり天職ではないか、と直感した。同年11月20日には半生を綴った『安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生』(文春新書)を出版している。
本人10年、20年先のドン・キホーテから考えると「ここで身を引くべきだ」という答えしか出ないんです。これ以上、会社に君臨すると会社の成長を阻害すると考えたのです。 出典
— シンガポールで「DON DON DONKI」を創業、第二創業
シンガポール一の繁華街・オーチャード通りに、食品を主体に日本産品を専門に扱う「ジャパンブランド・スペシャリティストア」の1号店を開いた。現地企業のM&Aが主体だった海外事業で初めてゼロから作った完全オリジナル業態で、安田自身にとって日本のドン・キホーテに次ぐ「第二創業」となる。自ら直接貿易を行ってコストを下げ、価格破壊を仕掛けた店は開業当初から超繁盛店として地元メディアやSNSで話題になった。以後3年で3か国13店舗に広がり、2024年6月末にはアジア6か国・地域45店舗となった。
本人狙い通りに日本の食品を求めて連日お客さまが殺到した。テナントのオーナーと話したところ、同じテナント内のルイ・ヴィトンより売り上げが良いという。日本の食品はルイ・ヴィトン以上のスーパーブランドだと確信した 出典
グループはPPIHへ商号変更、非常勤取締役に復帰
1月にユニーを完全子会社化したグループは、2月に商号を「パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(PPIH)」に改め、同月にタイ、7月には香港へDON DON DONKIを出店した。安田はこの年、同社の取締役(非常勤)に復帰。9月には大原孝治社長兼CEOが退任して米国事業に専念し、後任には2007年に安田の強いオファーで入社した吉田直樹が就いた。
生産者との会員組織「PPIC」発足、「最後の社会的使命」
10月23日、日本の農畜水産物の輸出拡大に向けた生産者とPPIHグループの会員制組織「PPIC(Pan Pacific International Club)」の発足が発表され、東京・帝国ホテルの発足会に安田が登壇した。久しぶりに公の場に姿を見せた安田はこの取り組みを自身にとっての「最後の社会的使命」と訴え、日本市場を「世界一のレッドオーシャン」と呼び、作る側と売る側が運命共同体として海外市場に打って出る必要を説いた。
「DON DON DONKI」が台湾に初出店
1月19日、台北の繁華街・西門町に台湾1号店「DON DON DONKI 西門店」が24時間営業でオープンした。シンガポール発の業態は香港・タイ・台湾に広がり、マレーシアにも店舗を展開している。
34期連続増収増益、売上高で国内小売4位に
グループは2023年6月期に34期連続の増収増益を達成し、日本の小売業で売上高4位になった。9月の日経ビジネス編集長インタビューで安田は、毎年十数%ずつ伸ばす複利効果を三十数年続けた結果だと語り、勇ましい店名とは正反対に会社の経営は別問題だったと振り返った。
本人率直に言えば、思えば遠くに来たもんだということですよね。私が創業したころは、「兆」がつく売上高の企業になるなんて夢想だにしていなかった。 出典
著書『運』を出版、グループ売上高は2兆円を突破
6月20日、「最強の遺言」と銘打った『運 ドン・キホーテ創業者「最強の遺言」』(文春新書)を発売。個人にまつわる「個運」と組織にまつわる「集団運」の2つを磨き上げることを説いた。同じ月に締めた2024年6月期にはPPIHの連結売上高が2兆951億円と、国内小売業5社目の売上高2兆円を突破し、1号店開店以来35期連続の増収増益となった。
本人だが、私自身は特別に運が強いわけではない。災難を招いた「不運」を、「幸運」に変える力が強いのだ。 出典
長男・裕作をPPIH取締役に、「創業家当主の地位を譲る」
8月16日の決算説明会で、長男・安田裕作(22)を取締役(非常勤)に推挙する人事が発表された。裕作は同年1月に入社したばかりで、安田は説明会で「将来的には創業家当主の地位を譲る」と明かした。人事は9月27日開催の定時株主総会と、その後の取締役会での承認を経て正式に選任される形で進められた。
がん闘病を公表、対談集『圧勝の創業経営』を出版
7月16日配信の「週刊文春」の取材で、2023年末に小細胞肺がんと診断され、末期がんの闘病中であることを自ら明かした。首の血管の経過観察で受けたCT検査で肺に黒い影が見つかったのがきっかけだったという。7月18日には北尾吉孝、似鳥昭雄、藤田晋、入山章栄を相手にした対談集『圧勝の創業経営』(文春新書)を発売し、まえがきに「おそらく私にとって最後の作品になる」と記した。
本人本書はおそらく私にとって最後の作品になるが、いま私のなかで改めて、一つの確信が深まっている。それは、積極的にリスクを取り、挑戦を続ける者だけが、仕事や人生において「勝利」を掴めるということだ。 出典
現在 — 闘病しながら創業会長として発信を続ける
PPIH創業会長兼最高顧問・取締役(非常勤)として経営を見守り、闘病を続けながら発信を止めていない。2026年2月に日経BizGateが掲載したインタビューでは「リスクの無いことが最大のリスク」と語り、利他の精神を実践したら業績が伸び続け、60歳の時に年商約5000億円、75歳で年商約2兆円になったと振り返った。