目次
色街で育ち、10歳で被爆
昭和10〜
長崎市本石灰町に生まれる
出生名は寺田臣吾。母の実家の跡継ぎとして丸山家の養子となり「丸山臣吾」に改姓したが、寺田家で育った。丸山遊廓に近い繁華街の家で、隣の芝居小屋・南座に幼い頃から出入りしていた。
長崎の自宅で被爆する
自宅で夏休みの宿題の絵を描いていた時、原爆が投下された。6日後の終戦の日には、爆心地近くにあった母の実家まで祖父母を一人で探しに行き、惨状を目にしている。原爆で父の貸付先が相次いで破産・死去し、一家は貧しい暮らしになった。
本人10歳の夏でした。家の2階の縁側で宿題の絵を描いていて、出来ばえを見ようと2〜3歩後ろに下がったとき、白い閃光が走りました。 出典
海星中学に入り、シャンソンと出会う
終戦の翌年、海星中学に入学。映画『僕の父さん』で子役・加賀美一郎のボーイソプラノに感動し、先生の勧めでピアノと声楽を習うようになる。中学ではフランス語が必修で、家の前の楽器店で聴いたレコードからシャンソンを知り、独学で歌い始めた。
上京、銀巴里から『メケ・メケ』へ
昭和26〜
国立音楽高等学校に入学し、上京する
オペラ歌手やコンサート歌手を夢見て国立音楽高等学校に入り、春に一人で上京した。だが二学期いっぱいで中退する。本人は、家が破産して下宿代も払えなくなったと振り返る。
進駐軍のキャンプでジャズを歌い始める
中退後、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプを回ってジャズを歌った。本人はこれを「プロとしての始まり」と語っている。新宿駅で寝泊まりした時期もある。
橘薫の前座で歌い、銀巴里へ
アルバイトをしながら、頼まれて宝塚出身の橘薫のシャンソン・コンサートで前座を務めた。橘に認められて銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を紹介され、原孝太郎に師事して歌い始める。
銀巴里と専属契約、丸山明宏を名乗る
師の原孝太郎が新宿の「ラ・セーヌ」に移った。その誘いに迷ったが、店のオーナーに引き留められて残り、客足の落ちた銀巴里と専属契約を結ぶ。名を丸山明宏と改め、紫ずくめの装いで銀座を歩いて店を宣伝し、三島由紀夫、吉行淳之介、寺山修司ら文化人の支持を得ていく。
— 『メケ・メケ』が大ヒット
シャンソン『メケ・メケ』を日本語でカバーしてレコードに吹き込み、大ヒットした。元禄時代の小姓の衣装を洋装に取り入れたユニセックスな装いで、マスメディアから「神武以来の美少年」「シスターボーイ」と呼ばれる。全国の興行に引っ張りだこになり、あちこちに偽者が出たほどだった。この年、増村保造監督の映画『暖流』にも歌手として出演している。
『女であること』など、映画への出演が続く
1958年の『女であること』ではオープニングで同名の主題歌を歌い、『東京野郎と女ども』では舶来のシスターボーイを演じた。1959年には『体当りすれすれ娘』『新婚列車』に、役名のある役で出ている。
自作の歌と、寺山・三島の舞台
昭和38〜
日本初の全曲自作リサイタルを開く
本人によると、『メケ・メケ』の後に全国を回っていた頃、九州の炭鉱町の興行で炭塵にまみれた客を前にし、自分で歌を作ろうと思ったという。ブームは1年ほどで静まり、その間に週刊誌で同性愛者であることを公表したことや、自ら和訳した生々しいシャンソンへの反発もあって、人気は急落した。1963年、中村八大らの助力で、全曲を自作で構成したリサイタルを日本で初めて開いた。
本人なんとかこういう人たちを慰め、励ます歌はないだろうか、と思いました。 出典
— 『ヨイトマケの唄』をテレビで歌い、反響を呼ぶ
前年にステージで初めて披露した自作『ヨイトマケの唄』を、NET(現・テレビ朝日)の『木島則夫モーニングショー』で歌った。建築現場で働く母と息子を描いた歌で、直後から労働者や母子家庭の人たちのはがきが全国から届き、1週間後には異例のアンコールが組まれる。それまで見向きもしなかったレコード会社やプロダクションが訪れるようになった。一方、歌詞の「土方」が不適切だとされ、民放では歌えなくなる。この年の末に打診のあった紅白歌合戦は、6分以上ある歌を2分半に縮める条件だったため断った。
1965年、同世代の人は
彩木 雅夫(音楽家・1933年生まれ)札幌本社へ移り、『愛の終りに』を売り込む— 寺山修司の天井桟敷の旗揚げ公演に主演
寺山修司の演劇実験室・天井桟敷の旗揚げ公演で、寺山が書き下ろした『青森県のせむし男』に主演した。役は大正マツという醜い老女で、事務所は『ヨイトマケの唄』のヒットで世間に認められたばかりだと反対したが、引き受けて大当たりになる。続く『毛皮のマリー』も前作以上のヒットになり、本人はこの2作を舞台俳優としての出発点に挙げている。
本人後の『黒蜥蜴』や『愛の讃歌』などへつながる、私の舞台俳優としての出発点です 出典
『黒蜥蜴』に主演、自叙伝『紫の履歴書』を刊行
江戸川乱歩原作・三島由紀夫脚本の舞台『黒蜥蜴』で、主役の盗賊を演じた。同じ年には深作欣二監督の映画版でも主演し、この作品は海外でも評価を受ける。舞台『双頭の鷲』『椿姫』にも立ち、9月には自叙伝『紫の履歴書』を大光社から出した。
美輪明宏への改名と、長い療養
昭和46〜
芸名を美輪明宏に改める
1971年、三島由紀夫の供養の読経中に「美輪」の字が浮かび、生前の三島が三輪神社で修行していたことに思い至る。姓名判断でも申し分のない画数だったことから、丸山明宏から美輪明宏に改名した。あわせて女性役を演じない「女優引退宣言」をして、歌手活動に専念する。前年の1970年からはTBSラジオの身の上相談を受け持っており、芸能人の人生相談としては異例の25年続く番組になる。
アルバム『白呪』を発表
歌手に専念した時期に出したアルバムの一つ。映像には男性役で出るようになり、翌1976年にドラマ『さくらの唄』、1977年に井上ひさし原作の映画『日本人のへそ』に出演した。
エディット・ピアフを描く『愛の讃歌』を初演
1978年に森茉莉原作の『枯葉の寝床』で舞台に戻った。だがこの頃から体調を崩して年々悪化し、テレビ出演を控えるようになる。1979年、深く敬愛するエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演の舞台『愛の讃歌』を初演した。
『毛皮のマリー』『青森県のせむし男』を再演
天井桟敷で初演した2作を再演する。同じ年、りんたろう監督のアニメーション映画『幻魔大戦』でフロイの声を演じた。翌1984年には『双頭の鷲』を再演し、パリでリサイタルも開いた。
パリ、マドリード、シュトゥットガルトでリサイタル
舞台に立てなくなった後もリサイタルは続け、パリ、マドリード、シュトゥットガルトで開いたリサイタルは、ル・モンドやリベラシオンをはじめ多くの新聞・雑誌に紹介された。前年の1986年からは、PARCO劇場でのロングリサイタルも始めている。
銀巴里の閉店で「さよならコンサート」
40年近く歌い続けた銀巴里が閉店し、最後の日のさよならコンサートで自作の『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌った。この年、東京芸術劇場のこけら落とし公演『マリー・ローランサン』を演出している。
『黒蜥蜴』の再演、ジブリの声
平成5〜
『黒蜥蜴』を再演し、舞台に戻る
前年に持病が完治し、1985年以来遠ざかっていた舞台に『黒蜥蜴』の再演で戻った。前売り券は発売当日に完売する。主演に加えて演出・美術・衣装・選曲も自ら手がけ、以後の舞台は1994年と1996年の『毛皮のマリー』を除いて、全て自身の演出になった。
『もののけ姫』でモロの君を演じる
宮崎駿監督のアニメーション映画『もののけ姫』で、山犬神・モロの君の声を担当した。アフレコでは宮崎から「今回はふだんの美輪さんのままで」と頼まれている。この役で東京スポーツ映画大賞の助演男優賞を受けた。同じ年に13年ぶりに再演した『双頭の鷲』では、読売演劇大賞の優秀賞を受けている。
渋谷ジァン・ジァンで最後のライヴ
銀巴里の閉店後、唯一のライブの場だった渋谷ジァン・ジァンが閉場することになり、最後のライヴを開いた。同じ年、桑田佳祐がフジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん』で『ヨイトマケの唄』を歌っている。以後、長く放送自粛となっていた民放各局でもこの歌が放送される機会が増えていく。
『ハウルの動く城』で荒地の魔女を演じる
宮崎駿監督のアニメーション映画に声で出演し、荒地の魔女を演じる。『もののけ姫』に続くスタジオジブリ作品への参加になった。
『オーラの泉』に出演
テレビ朝日系の番組『オーラの泉』が始まり、「愛の伝道師」として出演した。番組は2009年まで続く。宮崎駿作品の声とあわせて、幅広い層に知られるようになった。
劇場版『ポケットモンスター』でアルセウスの声
劇場版ポケモンの第12作『劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール アルセウス 超克の時空へ』で、アルセウスを演じた。
77歳の紅白初出場、最期まで
平成24〜
— 77歳で紅白歌合戦に初出場し、『ヨイトマケの唄』を歌う
『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場し、約半世紀前に出場を断った『ヨイトマケの唄』を歌った。77歳での初出場は、初出場者として史上最高齢だった。
本人61年目の新人でございます。『紅白』は初出場でございますけれど、50年ほど前に「ヨイトマケの唄」でもお話はあったのですが、その時は事情があってご辞退申し上げました。 出典
同じ77歳で転機を迎えた人
村上 春樹(作家・2026年)3年ぶりの長編小説『夏帆 The Tale of KAHO』を刊行紅白歌合戦に史上初めて80代で出場
『第66回NHK紅白歌合戦』に出場し、自身の持つ最年長出場の記録を更新した。翌年は選ばれず、これが最後の紅白になった。4年続けての紅白出場になった。
東京都名誉都民に顕彰される
金工鍛金家の奥山峰石、写真家の笹本恒子とともに名誉都民に選ばれ、都庁の顕彰式で称号記を受けた。
本人最初にご連絡をいただいたとき、いったんはご遠慮したんです。私は社会に反旗を翻し、抗いつづけて生きてきたものですから、いただける筋合いはないと思いますって。 出典
軽い脳梗塞で入院、全国公演を中止
軽い脳梗塞で入院し、9月から11月のシャンソンの全国公演を中止した。11月17日にTBSラジオのレギュラー番組『美輪明宏 薔薇色の日曜日』で仕事に戻り、12月17日には入院後初めてイベントに出て、報道陣の前に姿を見せた。
本人私はどんなことがあってもフェニックスのようによみがえるんです 出典
NHK放送文化賞を受け、世田谷区名誉区民に
第73回NHK放送文化賞を受賞した。10月16日には区制施行90周年の記念式典で、石川さゆりらとともに世田谷区の名誉区民に顕彰されている。
TBSラジオで『美輪明宏の薔薇色の人生』を始める
2003年から続いた『美輪明宏 薔薇色の日曜日』が2020年3月29日に終わってから3年余り。TBSラジオで、再び自分の名前を冠した番組を持った。
90歳で楽曲を一斉配信、紀伊國屋演劇賞の特別賞を受ける
誕生日の5月15日、キングレコードから出したシングルとアルバム計17タイトル・のべ171曲が、音楽のサブスクリプションサービスで一斉に配信された。8月1日公開の映画『長崎―閃光の影で―』では語りを務め、自身の被爆体験をつづったメッセージを寄せている。12月には第60回紀伊國屋演劇賞の特別賞に選ばれ、天井桟敷の旗揚げ公演から『毛皮のマリー』『双頭の鷲』『黒蜥蜴』の主演まで、長年の舞台での功績が理由に挙げられた。
本人若い世代の方には、もう二度と戦争を起こさないように、美しい文化にふれて心を豊かにしていただきたいと思います。 出典
老衰のため死去、91歳
この1年は高齢のため仕事を抑えて体力の回復に努め、約3か月前に体調を崩してからは自宅で静養していた。6月20日午前9時30分、老衰のため亡くなる。最後は「ありがとう」と一言感謝を伝え、静かに目を閉じたという。葬儀は近親者のみで営まれ、6月28日に所属事務所のオフィスミワが公式サイトで公表した。