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さいき まさお

彩木 雅夫

北海道放送の局員のまま『長崎は今日も雨だった』を書き、『なみだの操』のヒットを機に独立。北海道を拠点に作曲を続け、78歳からは「まさP」として初音ミクの曲を発表した。

昭和8年 北海道河東郡音更町生まれ ・ 北海道帯広市出身 ・ 1933–2022 ・ 没年89歳

本名新居 一芳(あらい かずよし) / 学歴北海道帯広柏葉高等学校・北海学園大学経済学部卒 / 活動拠点北海道札幌市 / 作曲家デビュー1966年『愛の終りに』

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1933(昭和8) 北海道音更町に生まれ、帯広で育つ1952(昭和27) 帯広柏葉高校を卒業1956(昭和31) 北海学園大学を卒業し、東京の専門学校へ1958(昭和33) 北海道放送に入社、帯広放送局の技術職に1960(昭和35) 社内のジャズ仲間とバンドを組む1964(昭和39) 初めての曲を同僚の結婚式で披露1965(昭和40) 札幌本社へ移り、『愛の終りに』を売り込む1966(昭和41) 『愛の終りに』で作曲家デビュー作曲家デビュー1967(昭和42) 森進一『命かれても』が森の初のミリオンセラーに命かれても1967(昭和42) 入院先で知り合った女性と結婚1968(昭和43) 森進一『花と蝶』が100万枚、森は紅白に初出場1969(昭和44) 内山田洋とクール・ファイブ『長崎は今日も雨だった』1971(昭和46) 『ベストテンほっかいどう』の初代ディレクターに1972(昭和47) 阿久悠と組んだ『港の五番町』1973(昭和48) 殿さまキングス『なみだの操』なみだの操1974(昭和49) 『夫婦鏡』も1位、『なみだの操』は日本レコード大賞大衆賞1975(昭和50) 北海道放送を退社し、作曲家として独立独立1976(昭和51) 札幌に制作会社ミュージックキャップ・サッポロを設立1982(昭和57) エフエム北海道の取締役に1985(昭和60) 藻岩山で「彩木雅夫音楽祭」を始める1986(昭和61) 夕張市を歌う森進一『わが故郷は心のふるさと』1988(昭和63) 16年ぶりに『港の五番町』が五木ひろしの歌でヒット1990(平成2) ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭のゼネラルプロデューサーに1991(平成3) 宮路オサムの『女房』1994(平成6) 杉良太郎の『旅路』『心くばり』1995(平成7) 『どっちもどっち』がNTTドコモのCMソングに1999(平成11) 瀬川瑛子が歌う『長崎夢情』2001(平成13) J-POPと日本語について語る2005(平成17) 『長崎の今日は晴れだった』を後川清&ホットファイブに2011(平成23) 再始動した前川清&クール・ファイブに新曲2012(平成24) 「まさP」の名で初音ミクの曲をニコニコ動画に投稿まさP2013(平成25) 作曲活動50年、北海道知事から感謝状2014(平成26) 初音ミクのアルバム『手紙-The Letter-』を出す2018(平成30) 47年前の『さだめのように川は流れる』を初音ミクで発表2022(令和4) 肺炎のため死去、89歳昭和平成令和
誕生 1933歿 2022
北海道放送(HBC)の技術職員だった1966年、自分で売り込んだ曲がジャッキー吉川とブルーコメッツの『愛の終りに』として発売され、作曲家になった。局に勤めたまま森進一の『命かれても』『花と蝶』、内山田洋とクール・ファイブの『長崎は今日も雨だった』を書き、殿さまキングスの『なみだの操』のヒットをきっかけに1975年に局を辞めて独立した。『長崎は今日も雨だった』が縁となり、のちに北海道の市や町を応援する歌も積極的に作った。78歳だった2012年からは「まさP」の名で初音ミクの曲をニコニコ動画に投稿し、最年長のボカロPとして知られた。2022年に89歳で亡くなった。

同世代1966年、同世代の稲盛 和夫は、社長に就任し、IBMの大型受注をこなす →

歩み

十勝で育ち、電気技術の道へ

昭和8〜

昭和
1933昭和88月5日
満0歳

北海道音更町に生まれ、帯広で育つ

音更町にある父の実家で生まれる。3歳の時に父が亡くなり、幼い頃は音更の祖父母と過ごすことも多かった。1940年に帯広小学校へ入学し、5年生の時に池田町へ学童疎開した。

1952昭和273月
満18歳

帯広柏葉高校を卒業

終戦後に帯広へ戻り、手に職をつけるために帯広商工高等学校(現・帯広柏葉高等学校)の土木科へ進む。卓球と、家でのラジオづくりなどの電子工作に打ち込んだ。映画館にも通い、時代劇や洋画の劇伴音楽に感銘を受けた。

1956昭和313月
満22歳

北海学園大学を卒業し、東京の専門学校へ

1952年に北海学園大学経済学部へ進み、2年の時に軽音楽部を結成。すすきのの大衆キャバレーでバンドとして演奏し、腕を磨いた。3期生として卒業すると、高校時代に得意だった電気技術を生かすため、東京・中野区の電気系の専門学校へ進んだ。

局の技術職員が鼻歌から曲を書く

昭和33〜

1958昭和334月
満24歳

北海道放送に入社、帯広放送局の技術職に

3月に東京の電気通信の専門学校を卒業し、4月に北海道放送(HBC)へ入社する。帯広放送局に配属され、技術職として送信所の管理にあたった。

1960昭和35
満26歳

社内のジャズ仲間とバンドを組む

帯広で家を買い、大型スピーカーでレコードを楽しむ暮らしの中、社内のジャズ仲間とバンド「リズムクルッターズ」を結成した。

1964昭和39
満30歳

初めての曲を同僚の結婚式で披露

自宅で仲間と酒盛りをした後、聞き覚えのないメロディが鼻歌で浮かんだのがきっかけで、1962年頃から曲を作り始めた。最初の曲『トンポコちゃん、さようなら』は、この年の同僚の結婚式で披露した。

1965昭和40
満31歳

札幌本社へ移り、『愛の終りに』を売り込む

春に札幌本社のテレビ局技術部送像課へ移る。夏にはギターで演奏した『愛の終りに』のテープを作り、札幌にあるレコード会社7社の拠点へ持ち込んだ。関心を示したのは日本コロムビアだった。

1966昭和414月
満32歳デビュー

— 『愛の終りに』で作曲家デビュー

ジャッキー吉川とブルーコメッツの曲として『愛の終りに』が発売され、HBCに勤めたまま作曲家になった。売り上げは3万枚。デビューをきっかけに、音楽に詳しいならラジオ番組制作が向いているとして、技術の職場からラジオ部門へ配置転換された。

『命かれても』から『なみだの操』まで

昭和42〜

1967昭和429月10日
満34歳ミリオンセラー

— 森進一『命かれても』が森の初のミリオンセラーに

鳥井実の詞に曲をつけた、森進一の6枚目のシングル。累計売上は約100万枚とされ、森にとって初めてのミリオンセラーになった。この曲から、好きな漢字を集めた「彩木雅夫」の名を使い始める。

出典musiccap.co.jp
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命かれても彩木雅夫
1967昭和42冬
満34歳結婚

入院先で知り合った女性と結婚

アキレス腱を切って入院していた時、同じ病室の患者の見舞いに来ていた女性と知り合い、この年の冬に結婚した。

1968昭和435月5日
満34歳

森進一『花と蝶』が100万枚、森は紅白に初出場

川内康範の詞による森進一の9枚目のシングルで、累計100万枚を売った。森はこの曲で、デビュー3年目の年末に第19回NHK紅白歌合戦へ初めて出場した。同じ年には、森の『年上の女』も書いている。

出典
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花と蝶彩木雅夫
1969昭和442月1日
満35歳代表作

— 内山田洋とクール・ファイブ『長崎は今日も雨だった』

クール・ファイブのメジャーデビュー曲。ご当地ソングが好きではなく最初は断るつもりだったが、長崎生まれの作詞者・永田貴子の熱心な求めに応じた。長崎へは行ったことがなく、観光ポスター2枚を見ながら作曲した。当初の題は『長崎の夜』で、札幌の自宅で打ち合わせ中に外の雪を見て今の題になった。累計約150万枚を売り、グループは日本レコード大賞新人賞を受けて紅白に初出場。12月に出た『逢わずに愛して』も約120万枚を売り、クール・ファイブで唯一のオリコン1位になった。

本人雨がいつの間にかみぞれに変わっていた状況で出来た、これから長い冬になる実感と春への希望をつなげて作った 出典

1971昭和4611月
満38歳

『ベストテンほっかいどう』の初代ディレクターに

HBCラジオで11月に始まった『ベストテンほっかいどう』の初代ディレクターを務める。音楽番組に届くリクエスト曲から好まれる歌の傾向を読み取り、作曲に生かしていた。番組はその後、長寿番組になった。

出典
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1972昭和479月
満39歳

阿久悠と組んだ『港の五番町』

阿久悠とはこの年3月、クール・ファイブの『この愛に生きて』でも組み、こちらは古賀政男作曲賞を受けている。6月に録音し9月に出た『港の五番町』は、原みつるとシャネル・ファイブが歌ったシングルで、A面・B面とも阿久悠と彩木の組み合わせ。チャートにも売り上げにも記録は残らなかった。

出典web.archive.org
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港の五番町彩木雅夫
1973昭和4811月5日
満40歳代表作

— 殿さまキングス『なみだの操』

千家和也の詞による殿さまキングスの4枚目のシングル。なかなか取りかからない彩木のもとへ、ビクターの担当ディレクターに言われて、メンバーの宮路オサムが札幌まで訪ねてきた。宮路の下積みの身の上を聞いて「若いのに苦労している。何とか報いてやりたい」と思い、引き受けたという。あえて古風な編曲を提案し、前奏は『青い山脈』を思わせる。オリコンで9週連続1位、累計197.3万枚(公称250万枚)を売った。

1974昭和495月25日
満40歳受賞

『夫婦鏡』も1位、『なみだの操』は日本レコード大賞大衆賞

殿さまキングスの5枚目のシングル『夫婦鏡』は、トップ10入りから6週後にオリコン1位になった。前作に続く1位で、累計約150万枚を売る。『なみだの操』は1974年度のオリコン年間1位で、第16回日本レコード大賞では大衆賞を受けた。

出典enkara.net
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夫婦鏡なみだの操

局を辞め、札幌で独立する

昭和50〜

1975昭和504月
満41歳独立

北海道放送を退社し、作曲家として独立

殿さまキングスへの曲のヒットを機にHBCを退社し、翌月からは嘱託になった。北海道を拠点に作曲を続け、この年に「さっぽろレコード新人祭」を設立する。殿さまキングスには『女の運命』も書き、50万枚を売った。北海道の変化の激しい季節感や、人間の素朴さを生かした作風を心がけていた。

1976昭和513月
満42歳

札幌に制作会社ミュージックキャップ・サッポロを設立

1970年6月に東京で楽曲管理会社ミュージックキャップ・トーキョーを設立していた。この年、札幌に番組制作会社ミュージックキャップ・サッポロをつくる。

1982昭和579月
満49歳

エフエム北海道の取締役に

この年9月に放送を始めたFMラジオ局、株式会社エフエム北海道の取締役に就任し、作曲と並んで放送局の経営にも加わった。

1985昭和60
満52歳

藻岩山で「彩木雅夫音楽祭」を始める

札幌の藻岩山で、自分の名を付けた「彩木雅夫音楽祭」を設立した。地元紙は、小学生から76歳までの出場者が自慢ののどを披露した様子を伝えた。

1986昭和61
満53歳

夕張市を歌う森進一『わが故郷は心のふるさと』

たかたかしの詞で、夕張市を歌った森進一の曲。ご当地ソングは好きではなかったが、『長崎は今日も雨だった』が縁となり、その後はむしろ北海道の市や町を応援するご当地ソングを積極的に作った。夕張市を皮切りに、滝川市・穂別町・興部町など道内の自治体のイメージソングを手がけていった。美唄の『メロデアスタウン 美唄』もその一つだ。

本人僕の歌がそこの活性化につながれば、こんな幸せはありません 出典

1988昭和639月
満55歳受賞

16年ぶりに『港の五番町』が五木ひろしの歌でヒット

1972年に原みつるとシャネル・ファイブが歌った曲が16年ぶりに掘り起こされ、竜崎孝路の新しい編曲で五木ひろしが録音した。累計約50万枚を売り、第30回日本レコード大賞の金賞を受賞。五木はこの曲で、年末の第39回NHK紅白歌合戦に出場した。

映画祭の裏方と、ご当地の歌

平成2〜

平成 1989
1990平成2
満57歳

ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭のゼネラルプロデューサーに

夕張市でこの年に始まった映画祭で、第1回からゼネラルプロデューサーを務めた。第15回の開催を終えて退いている。

1991平成3
満58歳

宮路オサムの『女房』

『なみだの操』を歌った殿さまキングスの宮路オサムが歌う『女房』を作曲した。

1994平成6
満61歳

杉良太郎の『旅路』『心くばり』

杉良太郎が歌う『旅路』を手がけ、1997年には同じく杉の『心くばり』も書いた。

1995平成7
満62歳

『どっちもどっち』がNTTドコモのCMソングに

大仁田厚・大石加奈子が歌う『どっちもどっち』がNTTドコモのCMソングになった。

1999平成11
満66歳

瀬川瑛子が歌う『長崎夢情』

この年は瀬川瑛子が歌う『長崎夢情』と『YOKOHAMAベイブルース』を作曲した。

2001平成135月
満67歳

J-POPと日本語について語る

「J-POPはリズムが強調されて英語のほうが歌いやすく日本語が壊れていく」と語った。この年は、さっぽろ雪まつりのイメージソングとしてイルカが歌う『あなたの胸に』も書いている。

本人メロディと詞がうまく合わないとパワーのないつまらない歌となる 出典

2005平成172月23日
満71歳

『長崎の今日は晴れだった』を後川清&ホットファイブに

クール・ファイブのリードボーカルだった前川清のそっくりさんと、元クール・ファイブの小林正樹・宮本悦朗によるユニット、後川清&ホットファイブのシングル。作詞はヒロアキ。

出典
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2011平成23
満78歳

再始動した前川清&クール・ファイブに新曲

2006年の紅白で、前川清のソロ出場の場に内山田洋の追悼としてクール・ファイブのオリジナルメンバーが揃い、以後は前川清&クール・ファイブとして活動を再開していた。この年、そのグループに『あの時代にはもどれない』『マンハッタン』を提供した。

78歳で「まさP」を名乗る

平成24〜

2012平成24
満78歳ボカロP

— 「まさP」の名で初音ミクの曲をニコニコ動画に投稿

VOCALOIDの初音ミクが歌う『花はかざれない』を、「まさP」の名でニコニコ動画に発表した。投稿から約8か月後の2013年3月にランキング入りした。動画は10万回再生を超え、「史上最年長ボカロP」として若い世代にも名を知られるようになった。

2013平成252月
満79歳

作曲活動50年、北海道知事から感謝状

作曲活動50年を祝う記念セレモニーが開かれ、高橋はるみ知事から感謝状が贈られた。次の夢には「初音ミクで演歌を」を挙げている。8月には、ひかりTVで始まった初音ミクの冠番組『初音ミクの ミクミクメイクミク!』の初回ゲストに招かれた。2015年には東久邇宮文化褒賞を受けた。

2014平成26
満81歳

初音ミクのアルバム『手紙-The Letter-』を出す

「彩木雅夫 feat. 初音ミク」の名義で、ボーカロイド作品11曲を収めたアルバム『手紙-The Letter-』を出した。2016年には、初音ミク・MEIKO・KAITOが歌う『旅立ちの君へ』も出した。

2018平成30
満85歳

47年前の『さだめのように川は流れる』を初音ミクで発表

1971年4月に杏真理子のデビュー曲として書いた『さだめのように川は流れる』を、初音ミクの歌で発表した。阿久悠作詞のこの曲は、同時期にデビューした小柳ルミ子のヒットに埋もれ、2.8万枚・オリコン60位にとどまっていた。

出典web.archive.org
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令和 2019
2022令和49月16日
満89歳死去

肺炎のため死去、89歳

9月16日、肺炎のため89歳で亡くなった。1960〜70年代を中心に、発表した曲は200曲以上にのぼる。『長崎は今日も雨だった』を歌った前川清は「今の私があるのは、この曲と先生との出会いのおかげで感謝しかございません」とコメントした。

主な作品

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長崎は今日も雨だった楽曲長崎は今日も雨だった(1969)楽天で見る なみだの操楽曲なみだの操(1973)楽天で見る 手紙-The Letter-アルバム手紙-The Letter-(2014)楽天で見る

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