目次
十勝で育ち、電気技術の道へ
昭和8〜
北海道音更町に生まれ、帯広で育つ
音更町にある父の実家で生まれる。3歳の時に父が亡くなり、幼い頃は音更の祖父母と過ごすことも多かった。1940年に帯広小学校へ入学し、5年生の時に池田町へ学童疎開した。
帯広柏葉高校を卒業
終戦後に帯広へ戻り、手に職をつけるために帯広商工高等学校(現・帯広柏葉高等学校)の土木科へ進む。卓球と、家でのラジオづくりなどの電子工作に打ち込んだ。映画館にも通い、時代劇や洋画の劇伴音楽に感銘を受けた。
北海学園大学を卒業し、東京の専門学校へ
1952年に北海学園大学経済学部へ進み、2年の時に軽音楽部を結成。すすきのの大衆キャバレーでバンドとして演奏し、腕を磨いた。3期生として卒業すると、高校時代に得意だった電気技術を生かすため、東京・中野区の電気系の専門学校へ進んだ。
局の技術職員が鼻歌から曲を書く
昭和33〜
北海道放送に入社、帯広放送局の技術職に
3月に東京の電気通信の専門学校を卒業し、4月に北海道放送(HBC)へ入社する。帯広放送局に配属され、技術職として送信所の管理にあたった。
初めての曲を同僚の結婚式で披露
自宅で仲間と酒盛りをした後、聞き覚えのないメロディが鼻歌で浮かんだのがきっかけで、1962年頃から曲を作り始めた。最初の曲『トンポコちゃん、さようなら』は、この年の同僚の結婚式で披露した。
札幌本社へ移り、『愛の終りに』を売り込む
春に札幌本社のテレビ局技術部送像課へ移る。夏にはギターで演奏した『愛の終りに』のテープを作り、札幌にあるレコード会社7社の拠点へ持ち込んだ。関心を示したのは日本コロムビアだった。
— 『愛の終りに』で作曲家デビュー
ジャッキー吉川とブルーコメッツの曲として『愛の終りに』が発売され、HBCに勤めたまま作曲家になった。売り上げは3万枚。デビューをきっかけに、音楽に詳しいならラジオ番組制作が向いているとして、技術の職場からラジオ部門へ配置転換された。
1966年、同世代の人は
稲盛 和夫(経営者・1932年生まれ)社長に就任し、IBMの大型受注をこなす『命かれても』から『なみだの操』まで
昭和42〜
— 森進一『命かれても』が森の初のミリオンセラーに
鳥井実の詞に曲をつけた、森進一の6枚目のシングル。累計売上は約100万枚とされ、森にとって初めてのミリオンセラーになった。この曲から、好きな漢字を集めた「彩木雅夫」の名を使い始める。
— 内山田洋とクール・ファイブ『長崎は今日も雨だった』
クール・ファイブのメジャーデビュー曲。ご当地ソングが好きではなく最初は断るつもりだったが、長崎生まれの作詞者・永田貴子の熱心な求めに応じた。長崎へは行ったことがなく、観光ポスター2枚を見ながら作曲した。当初の題は『長崎の夜』で、札幌の自宅で打ち合わせ中に外の雪を見て今の題になった。累計約150万枚を売り、グループは日本レコード大賞新人賞を受けて紅白に初出場。12月に出た『逢わずに愛して』も約120万枚を売り、クール・ファイブで唯一のオリコン1位になった。
本人雨がいつの間にかみぞれに変わっていた状況で出来た、これから長い冬になる実感と春への希望をつなげて作った 出典
1969年、同世代の人は
山田 洋次(監督・1931年生まれ)映画『男はつらいよ』第1作を公開『ベストテンほっかいどう』の初代ディレクターに
HBCラジオで11月に始まった『ベストテンほっかいどう』の初代ディレクターを務める。音楽番組に届くリクエスト曲から好まれる歌の傾向を読み取り、作曲に生かしていた。番組はその後、長寿番組になった。
ja.wikipedia.org×2
阿久悠と組んだ『港の五番町』
阿久悠とはこの年3月、クール・ファイブの『この愛に生きて』でも組み、こちらは古賀政男作曲賞を受けている。6月に録音し9月に出た『港の五番町』は、原みつるとシャネル・ファイブが歌ったシングルで、A面・B面とも阿久悠と彩木の組み合わせ。チャートにも売り上げにも記録は残らなかった。
— 殿さまキングス『なみだの操』
千家和也の詞による殿さまキングスの4枚目のシングル。なかなか取りかからない彩木のもとへ、ビクターの担当ディレクターに言われて、メンバーの宮路オサムが札幌まで訪ねてきた。宮路の下積みの身の上を聞いて「若いのに苦労している。何とか報いてやりたい」と思い、引き受けたという。あえて古風な編曲を提案し、前奏は『青い山脈』を思わせる。オリコンで9週連続1位、累計197.3万枚(公称250万枚)を売った。
『夫婦鏡』も1位、『なみだの操』は日本レコード大賞大衆賞
殿さまキングスの5枚目のシングル『夫婦鏡』は、トップ10入りから6週後にオリコン1位になった。前作に続く1位で、累計約150万枚を売る。『なみだの操』は1974年度のオリコン年間1位で、第16回日本レコード大賞では大衆賞を受けた。
局を辞め、札幌で独立する
昭和50〜
北海道放送を退社し、作曲家として独立
殿さまキングスへの曲のヒットを機にHBCを退社し、翌月からは嘱託になった。北海道を拠点に作曲を続け、この年に「さっぽろレコード新人祭」を設立する。殿さまキングスには『女の運命』も書き、50万枚を売った。北海道の変化の激しい季節感や、人間の素朴さを生かした作風を心がけていた。
札幌に制作会社ミュージックキャップ・サッポロを設立
1970年6月に東京で楽曲管理会社ミュージックキャップ・トーキョーを設立していた。この年、札幌に番組制作会社ミュージックキャップ・サッポロをつくる。
エフエム北海道の取締役に
この年9月に放送を始めたFMラジオ局、株式会社エフエム北海道の取締役に就任し、作曲と並んで放送局の経営にも加わった。
藻岩山で「彩木雅夫音楽祭」を始める
札幌の藻岩山で、自分の名を付けた「彩木雅夫音楽祭」を設立した。地元紙は、小学生から76歳までの出場者が自慢ののどを披露した様子を伝えた。
夕張市を歌う森進一『わが故郷は心のふるさと』
たかたかしの詞で、夕張市を歌った森進一の曲。ご当地ソングは好きではなかったが、『長崎は今日も雨だった』が縁となり、その後はむしろ北海道の市や町を応援するご当地ソングを積極的に作った。夕張市を皮切りに、滝川市・穂別町・興部町など道内の自治体のイメージソングを手がけていった。美唄の『メロデアスタウン 美唄』もその一つだ。
本人僕の歌がそこの活性化につながれば、こんな幸せはありません 出典
16年ぶりに『港の五番町』が五木ひろしの歌でヒット
1972年に原みつるとシャネル・ファイブが歌った曲が16年ぶりに掘り起こされ、竜崎孝路の新しい編曲で五木ひろしが録音した。累計約50万枚を売り、第30回日本レコード大賞の金賞を受賞。五木はこの曲で、年末の第39回NHK紅白歌合戦に出場した。
映画祭の裏方と、ご当地の歌
平成2〜
ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭のゼネラルプロデューサーに
夕張市でこの年に始まった映画祭で、第1回からゼネラルプロデューサーを務めた。第15回の開催を終えて退いている。
J-POPと日本語について語る
「J-POPはリズムが強調されて英語のほうが歌いやすく日本語が壊れていく」と語った。この年は、さっぽろ雪まつりのイメージソングとしてイルカが歌う『あなたの胸に』も書いている。
本人メロディと詞がうまく合わないとパワーのないつまらない歌となる 出典
『長崎の今日は晴れだった』を後川清&ホットファイブに
クール・ファイブのリードボーカルだった前川清のそっくりさんと、元クール・ファイブの小林正樹・宮本悦朗によるユニット、後川清&ホットファイブのシングル。作詞はヒロアキ。
ja.wikipedia.org×2
再始動した前川清&クール・ファイブに新曲
2006年の紅白で、前川清のソロ出場の場に内山田洋の追悼としてクール・ファイブのオリジナルメンバーが揃い、以後は前川清&クール・ファイブとして活動を再開していた。この年、そのグループに『あの時代にはもどれない』『マンハッタン』を提供した。
78歳で「まさP」を名乗る
平成24〜
— 「まさP」の名で初音ミクの曲をニコニコ動画に投稿
VOCALOIDの初音ミクが歌う『花はかざれない』を、「まさP」の名でニコニコ動画に発表した。投稿から約8か月後の2013年3月にランキング入りした。動画は10万回再生を超え、「史上最年長ボカロP」として若い世代にも名を知られるようになった。
作曲活動50年、北海道知事から感謝状
作曲活動50年を祝う記念セレモニーが開かれ、高橋はるみ知事から感謝状が贈られた。次の夢には「初音ミクで演歌を」を挙げている。8月には、ひかりTVで始まった初音ミクの冠番組『初音ミクの ミクミクメイクミク!』の初回ゲストに招かれた。2015年には東久邇宮文化褒賞を受けた。
初音ミクのアルバム『手紙-The Letter-』を出す
「彩木雅夫 feat. 初音ミク」の名義で、ボーカロイド作品11曲を収めたアルバム『手紙-The Letter-』を出した。2016年には、初音ミク・MEIKO・KAITOが歌う『旅立ちの君へ』も出した。
47年前の『さだめのように川は流れる』を初音ミクで発表
1971年4月に杏真理子のデビュー曲として書いた『さだめのように川は流れる』を、初音ミクの歌で発表した。阿久悠作詞のこの曲は、同時期にデビューした小柳ルミ子のヒットに埋もれ、2.8万枚・オリコン60位にとどまっていた。
肺炎のため死去、89歳
9月16日、肺炎のため89歳で亡くなった。1960〜70年代を中心に、発表した曲は200曲以上にのぼる。『長崎は今日も雨だった』を歌った前川清は「今の私があるのは、この曲と先生との出会いのおかげで感謝しかございません」とコメントした。