兵庫から京都帝国大学へ
1902〜
兵庫県に生まれる
8月31日、兵庫県に生まれた。のちに技術者として、そして経営者として、京都の産業界に足跡を残すことになる。
京都帝国大学工学部電気工学科を卒業
京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。同じ電気工学科には1年先に学んだ西枝一江がおり、この学友がのちに京セラ創業を共に支えることになる。卒業後は日本電磁器に入社し、技術者としての道を歩み始める。
松風工業、そして京セラ創業
昭和3〜
松風工業で稲盛和夫の上司となる
日本電磁器を経て、京都の碍子メーカー・松風工業に在籍。技術に通じた先輩社員として、1955年に入社した若き技術者・稲盛和夫の上司にあたり、その並外れた情熱と才能を間近で見ることになった。
稲盛の退社を機に、新会社設立を主導
稲盛が技術方針の対立から松風工業を去ることになると、慕っていた部下たちも後を追い、稲盛が存分に技術開発できる新会社をつくろうという動きが生まれた。青山は稲盛とともに、大学時代の友人で宮木電機専務の西枝一江や常務の交川有のもとへ何度も足を運ぶ。「26、27歳の人間にできるほど簡単なものではない」と渋る交川を、青山は稲盛の才能を信じて粘り強く説き伏せ、出資を取り付けた。
本人稲盛君の情熱は並外れている。必ず大成する。
— 京都セラミック(現・京セラ)を創立し、専務に就任
資本金300万円・従業員28名で京都セラミック株式会社を創立し、専務に就任。20代の稲盛を取締役技術部長に据え、年長の実業家として経営面から新会社を支えた。この会社が、のちに世界的な電子部品メーカー・京セラへと成長する出発点となった。
京セラの経営を担う
昭和34〜
京セラ、松下電子工業向けの量産で経営を軌道に
京都セラミックは創業まもなくから、ブラウン管テレビ用の絶縁部品「U字ケルシマ」を松下電子工業向けに月産20万本規模で量産した。専務の青山は組織管理を担い、1960年春に入社した新卒社員の育成にも力を注ぐなど、急成長する若い会社の土台づくりを支えた。
京都セラミックの社長に昇格
初代社長・宮木男也の後を受けて京都セラミックの社長に昇格。急成長する若い会社の舵取りを担った。
会長に就任し、稲盛に社長を託す
会長に就任し、34歳の稲盛和夫に社長の座を譲る。創業を主導した年長者が経営の第一線を若き創業者に委ねる形となり、稲盛体制のもとで京セラはさらに飛躍していった。
取締役相談役に
会長職を退き、取締役相談役として引き続き会社を見守る立場となった。
監査役に就任
この年から監査役を務め、経営の一線からは退きながらも京セラに関わり続けた。
音楽への献身と晩年
昭和49〜
私財を投じ、青山音楽記念館を建設
音楽を愛した青山は、私財を投じて京都・上桂に「青山音楽記念館 バロックザール」を建設し、6月に開館。初代館長を務めた。音楽を学ぶ弟と娘への思いが設立の動機だったといい、200席・天井高11mの本格的な室内楽ホールとして知られる。
青山財団を設立し、青山音楽賞を創設
財団法人青山財団を設立して初代理事長に就き、若い音楽家を顕彰・支援する「青山音楽賞」を創設。京セラで築いた実業の実りを、次代の音楽家の育成へと注いだ。
青山財団の理事長を退く
設立から務めた財団理事長を後進に委ねる。晩年まで音楽文化の支援に心を寄せ続けた。
死去
10月20日、急性心筋梗塞のため死去。97歳没。松風工業で稲盛の才能を見抜き、京セラ創業を主導した草創期の恩人として、その名は京セラの歴史に刻まれている。