鹿児島の少年期と苦学の時代
昭和7〜
鹿児島市薬師町に生まれる
印刷業を営む家の次男として生まれる。幼少期、祖母が密かに行う「隠れ念仏」の姿を見て宗教に関心を抱いたという。
鹿児島第一中等学校の受験に失敗
旧制中学受験に落ち、国民学校高等科へ進学。戦時下、空襲で実家も焼失する苦しい時期を過ごした。
肺浸潤で病床につく中『生命の実相』に出会う
結核の疑いで床に伏す中、見舞いに来た隣家の主婦から谷口雅春『生命の実相』を借りて読み、後の人生観・仕事観に影響を受けたと振り返っている。
家計を助けるため紙袋の行商を始める
鹿児島市高等学校第3部(現・鹿児島玉龍高等学校)に通いながら、家業を手伝い生活を支えた。
鹿児島大学工学部応用化学科に入学
希望していた医学部受験には失敗したが、地元の鹿児島大学に進み、有機化学を専攻する。
松風工業株式会社に入社
不況による就職難の中、教授の紹介で京都の碍子(がいし)メーカー・松風工業への就職が決まる。当時の松風工業は経営不振が続く会社だった。
日本初のフォルステライト合成に成功
特殊磁器(ニューセラミックス)の研究に没頭し、テレビ用ブラウン管部品に使う新素材の合成に成功。技術者としての評価を確立する。
技術方針の対立から松風工業を退社
上司の技術部長と開発方針が対立し、退社を決意。元上司の青山政次や、その友人の西枝一江らが新会社設立を後押しした。
松風工業の同僚・須永朝子と結婚
妻の朝子は、農学者・禹長春の四女。退社・独立という人生の転機を、ともに歩む伴侶を得て迎えた。
京セラ創業と急成長
昭和34〜
— 京都セラミック株式会社(現・京セラ)を創業
西枝一江らの出資を得て、資本金300万円・従業員28名で創業。取締役技術部長として、ファインセラミックスの専門メーカーとしての道を歩み始め、この一歩がのちに世界的なセラミックメーカーへと成長する京セラの出発点となった。
高卒社員の団体交渉を機に経営理念を確立
待遇改善を求めた若手社員との直談判を経て、「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」という経営理念を固める。後の「アメーバ経営」「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という方程式に連なる思想の出発点となった。
初めての海外出張で米国へ
海外市場の開拓に乗り出し、後にIBM社のコンピューター部品の受注などで京セラを世界的な電子部品メーカーへ押し上げる足がかりを作る。
京都セラミック代表取締役社長に就任
創業時は出資者が社長を務め、稲盛は取締役技術部長にとどまっていたが、量産実績と利益を積み上げた7年後、自ら社長の座に就いた。
大阪証券取引所・京都証券取引所に上場
自身の持ち株を売らず新株発行で資金を会社に残す方針を取り、財務基盤の強化と従業員の生活の安定を優先した。
米国でADR(米国預託証券)発行
ニューヨーク市場を通じた資金調達にも乗り出し、京セラの国際展開が加速する。
経営塾「盛和塾」の塾長を務める
中小企業経営者のボランティア勉強会として発足。後年には国内56塾・海外48塾、約1万5000人が参加する一大組織に育ち、稲盛は2019年末の閉塾まで塾長として経営者の育成に注力した。
電電自由化・社会貢献、そして得度
昭和59〜
私財を投じ稲盛財団を設立
科学技術や思想・芸術の分野で人類社会に貢献した人物を顕彰する国際賞の創設を目指し、私財を投じて財団を設立した。
— 第二電電企画(現・KDDI)を設立
電気通信事業の自由化を受け、巨大独占企業だった電電公社(NTT)に対抗する形で設立。長距離電話料金を安くすることが国民のためになるという考えから、自ら代表取締役会長に就いた。この設立が後のKDDI誕生につながり、日本の通信自由化を象徴する存在となった。
国際賞「京都賞」を創設
稲盛財団の中心的な取り組みとして国際賞「京都賞」を創設。第1回の授賞式もこの年に行われた。
京セラ会長職に専任
代表取締役社長を退き、会長職に専念。1997年に取締役名誉会長となるまで、この立場で経営の第一線から一歩引いた形で京セラを統括した。
京セラ会長を退き、臨済宗妙心寺派円福寺で得度
経営の一線から退いたのち、かねて関心のあった仏教の道へ入り、円福寺の西片擔雪のもとで在家得度し法名「大和」を授かる。雲水と共に托鉢修行も重ねたこの経験が、後年の「利他」の思想やJAL再建時の無報酬での取り組みの姿勢につながったとされる。
本人私は大会社の社長としてではなく、一人の人間として、少しはまともな人間になって死を迎えたいと思ったからです。
DDI・KDD・IDOの合併で「ディーディーアイ」発足(現KDDI)
第二電電を母体とする再編で株式会社ディーディーアイ(2001年にKDDI株式会社へ改称)が発足。稲盛は取締役名誉会長、2001年6月からは最高顧問となった。
京セラ名誉会長に
1997年から務めた取締役名誉会長から、肩書きを名誉会長に改める。経営の現場からはさらに距離を置きつつ、思想家・教育者としての発信を続けた。
JAL再建と晩年
平成22〜
— 政府の要請を受け、経営破綻した日本航空の会長に就任
会社更生法の適用を受けたJALの再建を、無報酬で引き受ける。経営の素人と見られながらも、JALフィロソフィの導入とアメーバ経営の手法で意識改革を進め、翌2011年3月期の過去最高益、2012年の再上場につながる、稲盛のキャリア最大の転機の一つとなった。
世間現場の意識改革は急速に進んだ。
JALが過去最高水準の利益を計上し再建が軌道に
就任からわずか1年で業績はV字回復し、世界の航空会社の中でも高水準の利益率を記録。再建のスピードは国内外で大きな注目を集めた。
JALが東京証券取引所に再上場
経営破綻からわずか2年8カ月での再上場を実現。同年2月には取締役名誉会長となり、再建の表舞台からは一歩引いた立場に移った。
JAL名誉会長に
再建の道筋をつけたのち、2015年4月には名誉顧問となり、JALの経営から完全に退いた。
「盛和塾」が36年の活動に幕
国内外104塾・約1万5000人の経営者を育てた経営塾を、自身の高齢を理由に閉塾。同年6月には稲盛財団の理事長も「創立者」の立場に移っていた。
京都市内の自宅で死去
老衰のため90歳で永眠。京セラ創業から60年以上にわたり、経営哲学と「利他」の思想は国内外の経営者に大きな影響を与え続けている。