新潟の寺から京都帝国大学へ
1901〜
新潟・願信寺の四男として生まれる
新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現・新潟市南区西白根)の浄土真宗大谷派の寺・願信寺に、西枝正観の四男として生まれる。仏教の教えが身近にある環境で育った。
新潟中学校を4年で修了(四修)
5年制の旧制中学を4年で修了する「四修」により、卒業を待たずに上級学校へ進む。
旧制新潟高等学校を卒業
郷里の新潟で旧制高校までを終え、進学のため京都へ向かう。
京都帝国大学工学部電気工学科を卒業
電気工学を修めて京都帝国大学を卒業。同じ電気工学科の同級生に、後に京セラ創業の橋渡し役となる青山政次がいた。
松風工業から弁理士独立へ
昭和2〜
京都の松風工業に入社
京都の碍子(がいし)メーカー・松風工業に技術者として入社。後年、若き日の稲盛和夫が勤めることになる会社である。
昭和恐慌のあおりで松風工業を退社
社長と何度も衝突したうえ、昭和恐慌の影響による人員整理の対象となり退社する。
弁理士として登録、京都・東山区で開業
技術者から法律の専門家へ転身。独立した西枝の最初の顧客は古巣の松風工業で、同社の特許出願をすべて任された。
上京区の「西枝特許事務所」を拠点に
開業から数年で事務所を京都市上京区へ移す。1935年刊行の人事録にも京都の弁理士として名を載せ、京都の産業界に根を張っていった。
宮木電機、そして京セラ創業支援
昭和18〜
宮木電機製作所に取締役として入社
京大時代の同級生・青山政次の仲介で、京都の産業用電気機器メーカー・宮木電機製作所へ。のちに専務取締役として経営の中枢を担った。
青山政次の紹介で稲盛和夫と出会う
松風工業を去る26歳の技術者・稲盛和夫のため、青山が旧友の西枝に新会社設立への支援を依頼。同席した常務の交川有は26、27歳の若者に事業は無理だと渋ったが、稲盛本人の情熱に触れ、支援へと動き出す。
— 京都セラミック(現・京セラ)の設立を支え、取締役に就任
資本金300万円で京都セラミック株式会社が設立され、自らも取締役に就任。「宮木電機の子会社として位置づけるのはやめておこう」と、新会社の独立性を重んじる形を提言した。社長には宮木電機社長の宮木男也が就いた。
自宅を担保に1000万円を借り、運転資金として提供
京都御所近くの自身の家屋敷を担保に京都銀行から1000万円を借り入れ、まだ信用のない新会社の運転資金に充てた。「無一文になるかもしれない」という西枝に、妻は「男が男に惚れてお金を出すのなら、本望ではありませんか」と応えたと伝わる。
本人この青年の夢にかけてみよう。
京セラが初年度から黒字を計上
創業初年度の売上は約2600万円、税引前利益は約300万円。稲盛は後年の講演で、西枝が自宅を担保に用立てた借入金があったからこそ、この初利益が心からうれしかったと振り返っている。西枝はその後も「京セラの陰の指導者」として幹部の育成に力を注いだ。
宮木電機社長と晩年
昭和43〜
宮木電機製作所の第2代社長に就任
初代社長・宮木男也の後を受け、第2代取締役社長に就任する。
宮木電機の代表取締役に就任
京都の老舗電機メーカーの経営トップとして、晩年まで指揮を執った。
死去、宮木電機と京セラの合同社葬
3月15日未明に71歳で死去。宮木電機製作所と京セラによる合同社葬が営まれ、稲盛和夫は霊前で「私どもの会社を実質的につくっていただいた恩人であり、京セラ創業の精神の源」と追悼の言葉を捧げた。