目次
新潟の寺から京都帝国大学へ
1901〜
新潟・願信寺の四男として生まれる
新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現・新潟市南区西白根)にある浄土真宗大谷派の寺・願信寺で、西枝正観の四男として生まれる。
京都帝国大学工学部電気工学科を卒業
電気工学科の同級生に、のちに松風工業で同僚となる青山政次がいた。同じく同級生の交川有(まじかわ たもつ)は戦時中に特許局に勤め、のちに宮木電機の常務となる人物で、稲盛和夫は西枝と交川を「ツーカーの仲」と語っている。
松風工業を去り、弁理士に
昭和2〜
碍子メーカーの松風工業に入社
京都市下京区福稲岸ノ上町(現・東山区)の碍子(がいし)製造会社・松風工業に入る。のちに稲盛和夫が勤め、青山政次がその上司となる会社である。
弁理士として登録、京都市東山区で開業
弁理士に登録し、京都市東山区で開業する。独立後の最初の顧客は宮木電機製作所。松風工業の同僚だった青山政次は、松風工業の特許出願をすべて西枝に任せた。数年後、事務所を上京区へ移して「西枝特許事務所」とする。
宮木電機の専務として
昭和18〜
青山政次と稲盛和夫から出資を頼まれる
松風工業を去ることになった稲盛和夫が、部下たちと新会社をつくる動きが始まる。資金の無い青山と稲盛は、専務の西枝と常務の交川有に出資を頼みに来た。交川は「26か27歳の人間にできるような、そんな簡単なものではない」と取り合わなかったが、二人は何度も足を運び、最後は西枝・交川と社長の宮木男也の3人が出資を決めた。
本人あんたの話を聞いて感じるものがありました。それで仕事をしてもらうことに決めました 出典
家屋敷を担保に、京セラ創業へ
昭和34〜
— 京都セラミックを宮木電機の子会社にせず設立、取締役に
西枝は「宮木電機に出資してもらうと京セラは宮木電機の子会社になってしまう」として、社長の宮木男也や他の役員に個人で出資するよう頼み、資本金300万円を集めた。4月に京都セラミック(現・京セラ)が設立され、社長に宮木男也、取締役に西枝が就く。稲盛は後年の講演で、この判断が京セラを「どこの系列でもなく、まったく独自の会社として発展させていく基にもなった」と語っている。
1959年、同世代の人は
青山 政次(経営者・1902年生まれ)京都セラミック(現・京セラ)を創立し、専務に就任家屋敷を担保に1000万円を借り、京セラに貸す
子会社にしなかったため宮木電機の保証では借りられず、資本金だけでは設備をそろえられない。西枝は京都御所近くの自分の家屋敷を担保に京都銀行から1000万円を借り、京セラに貸した。相談された夫人は「男が男に惚れてお金を出すのだから、私は構いませんよ」と笑って答えたと、稲盛の公式アーカイブは伝える。
本人稲盛さん、だいたい事業というのは千に一つ、万に一つ成功すればいいほうなのだよ。あなたはまじめなので成功するかもしれないけれども、たぶん、失敗する可能性のほうが高いと思う 出典
「京セラはつぶれても構わない」と告げる
会社ができた頃、宮木電機の役員もいる席で稲盛にこう言った。稲盛は冷たいことを言うと感じたが、のちに、宮木電機に迷惑をかけまいとする「非常に古いけれどもすばらしい考え方」だったと振り返っている。
本人宮木電機は私の命がある限り絶対につぶさないし、この会社を守っていくつもりです。しかし京セラはつぶれても構わないのです 出典
判断の基準に悩む稲盛から相談を受ける
28名で始まった会社で、社員の相談に答える判断の基準に悩んだ稲盛が相談に来た。西枝は自分に相談するよう言ったが、稲盛は西枝の判断に任せて本当にそれでいいのかと思い、結局「自分で考えるしかない」として、「人間として何が正しいのか」を基準に据えた。
本人稲盛さん何を言っているの、私がいるじゃないか。私に相談しなさい。なんでも教えてあげるから 出典
最初の決算後、借金で設備投資する考え方を説く
京セラ最初の年の売上は約2600万円、税引前利益は約300万円。借入金を3年で返せると喜んだ稲盛は、青山・西枝との話で、利益の半分は税金に取られると知る。西枝は借りて設備投資するよう説いたが、稲盛は納得できず、税引後で300万円を残せば3年で返せると考えた。稲盛はこの気づきを、京セラの高収益経営の発想の原点と語っている。
本人事業家というのはみんな、他人のお金を借りて設備投資し、大きくなっていくのです。金利を返し、償却ができさえすれば、金を借りることは決して恥でもなければ悪いことでもないんですよ 出典
宮木電機を率いた晩年
昭和36〜
宮木電機製作所の代表取締役に就任
前年の1968年に宮木男也の後を継いで宮木電機製作所の第2代社長となり、1969年1月に代表取締役に就く。宮木男也は1934年の株式会社設立から同社の代表取締役を務め、京都セラミックの初代社長も兼ねていた。
死去、宮木電機と京セラの合同社葬
3月15日午前1時30分ごろ、71歳で死去。宮木電機製作所と京セラの合同社葬が営まれ、稲盛和夫は「私どもの会社を実質的につくっていただいた恩人であり、京セラ創業の精神の源でもある西枝一江さん」と追悼した。稲盛の公式サイトは西枝を「京セラ創業の恩人」として紹介している。