姫路から京都帝国大学へ
1902〜
兵庫県姫路に生まれる
8月31日、兵庫県の姫路に生まれる。邦楽を嗜む家に育ち、クラシックも含めて広く音楽を愛したことが、のちの音楽ホール設立につながった。
出典ja.wikipedia.orgnobuchin.0011.co.jpaoyama-music-foundation.or.jp
京都帝国大学工学部電気工学科を卒業
京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。卒業後は日本電磁器、松風工業に勤め、電気技術者としての道を歩んだ。京大時代の友人には、のちに京セラ創業の出資者となる宮木電機の西枝一江がいた。
松風工業で稲盛和夫と出会う
昭和4〜
松風工業に再入社し、取締役を務める
松風工業に約20年勤めて一度退社したのち、この年に再入社して取締役を務めた。自著『心の京セラ二十年』の「前奏曲」もこの1954年から書き起こされている。
松風工業に入社した稲盛和夫の上司となる
4月、鹿児島大学を出た稲盛和夫が松風工業に入社し、青山はその上司にあたった。松風は労働争議が頻発する赤字続きの会社で、給与は遅配、同期は次々に去り、行き場のない稲盛だけが残って研究に没頭したという。稲盛は1956年に日本で初めてフォルステライトの合成に成功し、配属先の研究課はブラウン管テレビ用部品「U字ケルシマ」の注文を伸ばして同年11月に特磁課として独立する。青山は鹿児島から来た若い技術者の仕事ぶりを間近で見ることになった。
稲盛の退社に伴い自らも松風工業を去り、新会社設立へ奔走
外部から就任した部長に開発から手を引くよう告げられた稲盛が退社を決めると、特磁課の部下たちも後を追い、稲盛が存分に技術開発できる新会社をつくろうという動きが始まった。青山は稲盛とともに、大学時代の友人で宮木電機専務の西枝一江と常務の交川有のもとへ出資を頼みに通う。26、27歳の人間にできることではないと渋る交川に稲盛の情熱を説き、何度も足を運んだ末、西枝・交川と宮木電機の宮木男也社長の3人が出資を引き受けた。青山は後年、新社長の人選を誤ったことで自分も稲盛も退社するほかなくなったと自著の前書きに記している。
本人稲盛君の情熱は並外れている。必ず大成する 出典
京都セラミック創業、専務から社長・会長へ
昭和34〜
— 京都セラミック(現・京セラ)を創立し、専務に就任
4月、資本金300万円で京都セラミック株式会社を設立。社長には出資者の宮木男也が就き、青山は専務、27歳の稲盛は取締役技術部長として発足した。設立時に技術出資をした幹部社員は青山・稲盛ら9名で、青山は京都帝大卒だった。持株第4位の稲盛が社長になるのは7年後で、それまで会社の顔として経営を担ったのは宮木と青山である。この会社が、のちに世界的な電子部品メーカー・京セラへと成長する出発点となった。
新卒高卒者12名を迎え、幹部に「職員各位」の文書で心得を示す
創業初年度(1960年3月期)は売上高2,600万円・当期純利益100万円を計上。青山は取締役専務として3月1日付の「職員各位」と題する文書で、3月4日に出社する新高校卒業生12名を迎えるにあたり、整理整頓・正確性・自主性・判断力・部下の育成力など8項目を幹部に呼びかけた。自主性は「他からの指示をまたず、自己の創意で率先して行動しうる能力」と定義している。
300万円の増資で全従業員に功労株を割り当てる
7月1日の300万円増資で、増資分の一部を功労株として全従業員に割り当てた。従業員への株式割当はその後も1961年に5,000株、1966年に8,000株と続き、社員が株主として会社を支える形が育っていく。
待遇改善を求める若手高卒社員の談判に立ち会う
5月、前年春に入社した高卒社員たちが、月給への切り替えの約束と将来の保証を求めて稲盛に談判した。会社は月給化を4月にさかのぼって実施し、保証については三日三晩の話し合いで全員が納得したと、青山は自著に書き残している。
高卒新入社員教育で「会社の生立ち 京セラ精神」を講義
前年末に従業員が100名を超えたばかりの会社は、2月の高卒新入社員19名に6日間の導入教育を組んだ。初日は宮木社長の経営理念に続き、専務の青山が「会社の生立ち 京セラ精神」を1時間、さらに「会社の長期計画」を2時間語った。5月には滋賀蒲生工場が新設され、量産能力が広がっていく。
京都セラミックの第2代社長に就任
初代社長で出資者の宮木男也の後を受け、京都セラミックの第2代社長に昇格。創業から5年、前年に滋賀蒲生工場を新設して量産を広げた会社の代表を務めた。取締役技術部長だった稲盛はこの頃には常務となっており、青山の社長在任は1966年までの2年間だった。
会長に就任し、稲盛和夫に社長を託す
5月、量産と利益を積み上げてきた稲盛が創業7年目で社長に就任し、青山は会長となった。この年4月にフランスIBMからLSIサブストレート2,500万個を受注してから11月の製品合格通知まで、稲盛が滋賀工場に張りついて従業員と働き、現場の責任者である班長を重んじるようになった経緯を、青山は自著に書き留めている。
本人のっぴきならぬ用件があれば、本社(京都)へ東京へと出張するだけで、常に滋賀工場にへばりついて頑張り続け、従業員と一緒になって働いたのである。そして現場で実際に物をつくる責任者、指導者は班長であると知り、この連中に一途に働くことを教え、また生産の責任を持たせたのである 出典
創立10周年、社内規程を成文化した『社員手帳』が配付される
4月1日の創立十周年記念日を目途に社内規程の成文化が進められ、『社員手帳』が全従業員に配付された。前年4月には就業規則が改正され、月給制と日給月給制の二本立てになっている。会長の青山はこうした制度の変遷を自著に書き留めた。
取締役相談役に退く。同月、京都セラミックが株式上場
会長職を退いて取締役相談役に。同じ年の10月1日、京都セラミックは大阪証券取引所第2部と京都証券取引所に上場した。上場後は額面での第三者割当増資ができなくなったため、従業員のための自社株投資会が作られたと青山は記録している。
京セラ史の執筆と音楽への献身
昭和49〜
社内報『敬天愛人』で京セラ20年史の連載を開始
1月発行の社内報『敬天愛人』第62号から、自ら記録してきた膨大なメモをもとに京セラ20年史の連載を始める。1983年12月の第88号まで25回続いた。稲盛が先例への盲従を許さなかったことを記した「考え方は常に進歩すべきだ」の項もその一つである。
本人今日この考え方が良いと思っても、明日は良くないかもしれない 出典
監査役退任を記念して『心の京セラ二十年』を自費出版
3月30日、連載をまとめた四六判613頁の『心の京セラ二十年』を、監査役退任の記念に非売品として自費出版。創業以来の業績や人事制度の変遷などの記録を収める。2022年には孫の青山敦の許可で第2版が増刷された。
本人稲盛と二十数年共に歩んできた私が、稲盛はどんな人間であり、いかにして今日の京セラをつくってきたかを一つ一つ丁寧に、跡をたどってみることにいたしました 出典
私財を投じた青山音楽記念館バロックザールが開館、初代館長に
私財を投じて京都市郊外に建てた青山音楽記念館バロックザールが5月に竣工し、6月15日にオープニングセレモニー演奏会で開館。青山は初代館長となった。音楽を学ぶ弟と娘への思いがきっかけで、練習場を探して研鑽する演奏家に場を提供したいと考えたという。客席200席に対して天井高11mをとった室内楽ホールで、11月には第5回「京都美観風致賞」を受賞した。
出典aoyama-music-foundation.or.jpja.wikipedia.orgaoyama-music-foundation.or.jp
財団法人青山財団を設立して初代理事長に就き、青山音楽賞を創設
3月16日、財団法人青山財団を設立し初代理事長に就任。「助成金制度」と、顕彰事業としての「青山音楽賞」を同じ3月に創設した。財団は2011年に公益財団法人へ移行し、2017年に公益財団法人青山音楽財団と改称して、ホールの運営と音楽家の支援を続けている。
死去
10月20日、急性心筋梗塞のため死去。97歳没。松風工業で稲盛の上司として出会い、京都セラミックの創立に加わって専務・社長・会長を務め、その20年を613頁の記録に書き残した草創期の人物だった。自ら建てたバロックザールと青山財団は、没後も若い音楽家を支え続けている。