浜松の生い立ちと日本航空入社
昭和23〜
静岡県浜松市に生まれる
静岡県立浜松北高等学校を経て東京大学経済学部に進んだ。
東京大学経済学部を卒業、日本航空に入社
入社後はフランクフルト支店の空港所・営業所総務セクションマネージャーなどを務め、機体や接客の現場ではなく財務・資金畑を歩み始める。
財務畑を歩み、JAL社長に就任
平成11〜
日本航空の資金部長に就任
2001年には資金部長と経営企画室統合準備委員会事務局担当を兼務し、財務・経営企画の中枢を担うようになる。
日本航空執行役員に就任
2005年には日本航空インターナショナル・日本航空ジャパンの取締役を兼ね、経営中枢に加わった。
日本航空社長兼CEOに就任
運航・整備面のヒューマンエラーが続発する不祥事で引責辞任した新町敏行の後任に、財務畑出身という異例の経歴で抜擢された。就任中の年収は960万円と、同社パイロットの平均年収の半分以下に抑え、専用車も廃止して都営バスで通勤し社員食堂で昼食を取るなど、質素な経営スタイルを打ち出した。この対照的なリーダー像は当時の日本航空にとって、赤字体質からの脱却を印象づける転機となった。
テレビ東京「ガイアの夜明け」でJALの改革が特集される
「巨大航空会社の苦闘~JALは復活するか?~」と題し、崖っぷちからの改革の現場が半年間にわたって取材された。だが同年後半以降は原油高と世界的な金融危機の影響で、業績は再び悪化していった。
有楽町で社員とともにJAL利用を呼びかけるビラ配りに参加
経営危機が深刻化するなか、社長自ら街頭に立って利用促進を訴えた。折しも同月、自民党から民主党への政権交代が起きたばかりだった。
国交相・前原誠司主導で「JAL再生タスクフォース」が発足
新政権の前原誠司国交相は、前政権下の有識者会議を廃止し、自ら招集した事業再生専門家5名からなる「JAL再生タスクフォース」に資産査定と再生計画の策定を委ねた。政治主導での再建方針の策定が本格化し、経営陣の頭越しに再建の方向性が決まっていく構図となる。11月にはテレビ東京「ガイアの夜明け」の「徹底追跡 JAL危機」に出演し、自主再建に向けた取り組みを語ったが、事態は公的資金による支援へと進んでいった。
JAL再生タスクフォースが解散、企業再生支援機構に再建を引き継ぐ
約1か月間の資産査定と再生計画策定を終えたタスクフォースは、企業再生支援機構による支援を受けての再建が妥当と国交相に報告して解散。以後、再建の枠組みづくりは同機構に委ねられ、経営体制の刷新は西松の手を離れて進んでいった。
経営破綻と、その後
平成22〜
日本航空が会社更生法を申請、社長を引責辞任
日本航空は企業再生支援機構に正式に再生支援を申請し、即日で支援の決定を受けるとともに、東京地裁へ会社更生法の適用を申請した。負債総額は約2兆3221億円にのぼり、事業会社としては戦後最大級の倒産となった。西松は代表権のある役職から同日退任し、経営破綻の責任を一身に負う形となった。会長・CEOに就く稲盛の起用は政権主導で既定路線となっていた一方、社長人事については西松自身が大西賢を強く望んで指名したとされる。
財団法人「日航財団」理事長に就任
社長退任からわずか2週間後、無報酬で財団(現・公益財団法人JAL財団)の理事長を引き受けた。同年には城西国際大学の客員教授にも就任し、経営の第一線からは退いた。
近況:公の場に立つことは少ない
退任後は経営の表舞台から静かに退いており、近年公の場に姿を見せることは少ない。専用車を廃止しバス通勤と社員食堂での昼食を貫いた質素な経営者としての姿、そして戦後最大級の企業倒産の責任を即日退任という形で引き受けた対応は、日本航空の経営史における転換点として今も語り継がれている。