練馬・朝霞、兄のギター
昭和40〜
東京都世田谷区の自衛隊中央病院に生まれる
父は陸上自衛隊の防衛事務官・尾崎健一。5歳年上の兄・康がいる。東京都練馬区で育ち、練馬区立田柄第二小学校に入学した。小学3年で初めて詩を書いている。
小学5年で埼玉県朝霞市へ転居、登校しない日々に
転校先に馴染めず、登校するふりをして家を出ては1時間ほどで帰る日が続いた。兄が買って使っていなかったクラシックギターを手に取ったのが音楽との出会いで、6年生では半年にわたり登校せず、井上陽水やさだまさし、イルカの曲をギターで歌って過ごした。
練馬区立練馬東中学校へ越境入学
本人の希望で、以前住んでいた練馬の中学校へ越境入学した。旧友と再会して学校に通うようになり、生徒会副会長と文化祭実行委員長を務めた一方、喫煙で停学処分も受けている。
青山学院高等部に進み、「NOA」として新宿ルイードで初のライブハウス出演
高校受験は第一志望の慶應義塾志木に不合格で、青山学院高等部に合格。陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも受かっていたが、髪を短くしなければならないと知って青山学院を選んだ。4月に入学し、剣道部に所属。12月26日、アコースティックバンド「NOA」として新宿ルイードのステージに立った。
CBS・ソニーのオーディションに合格
高校2年で音楽で生計を立てる決意をし、中学時代の友人に促されてCBS・ソニーとビクターのオーディションに応募。10月11日の『CBS/SONY Sound Development Audition 1982』で「ダンスホール」と「もうおまえしか見えない」を歌い、11月20日に合格が発表された。辻仁成率いるECHOESとともに1982年の最優秀アーティスト賞に選ばれている。
「15の夜」から「10代の代弁者」へ
昭和58〜
シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で同時デビュー
高校3年の7月30日に初のレコーディングを始め、浜田省吾と佐野元春のツアーバンドを半々に起用して録音した。アルバム名は中上健次の小説『十九歳の地図』から着想を得ている。初回プレスは2,000枚ほどで、事務所もレコード会社も積極的なプロモーションをせず、セールスは伸び悩んだ。「15の夜」は友人たちの家出を題材にした曲で、翌年の雑誌でその夜の仲間について語っている。
本人無理やり髪を切られるのは間違ってるって、自分の思った正しい道へ進もうとしたことは、大切なことなんじゃないかって今でも思ってる。 出典
退学から2か月、卒業式の夜に新宿ルイードでデビュー後初のライブ
高校3年で飲酒や乱闘騒ぎから無期限停学となり、出席日数が足りず留年。1月25日に自主退学した。3月15日は青山学院高等部の卒業式の日で、その夜のライブには卒業式を終えたばかりの同級生も数多く駆けつけた。6月からは初のツアー「LIVE HOUSE APPEARANCE」で6大都市を回っている。
本人学校を辞めるってことは、死ぬか生きるかってくらい大変なことだった 出典
日比谷野音で7mの照明台から飛び降り左足を骨折
ライブイベント『アトミック・カフェ』に出演中、7mの高さの照明用イントレから飛び降りて左足を骨折。ステージに這いつくばって最後まで歌いきったが、この日以降のスケジュールはすべてキャンセルになった。12月には全国21都市を回るツアーを開始している。
シングル「卒業」発売、オリコン初登場20位
無期停学中の同級生が学校への不満から校舎の窓ガラスを割った話を聞き、自身も飲酒などで停学中だった尾崎が詞をつづった曲。オリコン初登場20位で自身初のランキング入りとなり、歌詞の過激な表現が話題になって実際に校舎の窓ガラスを割る若者も現れた。尾崎は後年、そうした影響について「罪の意識を感じる」と語っている。
本人あれはものすごくプライベートな歌だった 出典
2ndアルバム『回帰線』がオリコン初登場1位
27.3万枚を売り上げ、第27回日本レコード大賞で優秀アルバム賞を獲得。マスメディアは「10代の代弁者」「若者の教祖」と呼び、尾崎の名は瞬く間に全国へ広がった。本人は初登場1位に喜びきれず、コマーシャリズムに載せられているという危機感を口にした。ノーベルが発明したダイナマイトが後に殺人の武器になったことをたとえに挙げ、自身の歌が同じ状態になっていく不安も語っている。
本人心の底から喜ぶっていう感じじゃなかった 出典
20歳の誕生日前日に3rdアルバム『壊れた扉から』発売
11月28日、20歳の誕生日前日に10代最後となる3rdアルバム『壊れた扉から』を発売。この年は8月25日の大阪球場で初の単独野外スタジアムライブを行い2万6,000人を動員し、10月には短編集『誰かのクラクション』を刊行。11月14・15日の代々木オリンピックプール第一体育館は2日間で3万人を集めた。翌1986年1月1日の福岡国際センター公演を最後に無期限活動停止を発表する。
休止、逮捕、東京ドームでの復活
昭和61〜
単身ニューヨークへ渡る
20歳になって方向性を見失い、曲を生み出せないことに苦悩したまま渡米。何の収穫もないまま1987年1月に帰国し、2月にCBS・ソニーから新レーベルMOTHER&CHILDRENへ移籍した。7月に1年7か月ぶりのツアーを始め、8月の有明コロシアムは2日間で約2万人を動員したが、9月28日にライブ前に倒れて残りは中止。10月には初のライブアルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』を出した。
薬物を巡り逮捕され、活動が止まる
覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕され、翌1988年1月11日に起訴。1月に予定されていた初の日本武道館公演は実現しなかった。2月22日、東京地方裁判所で懲役1年6か月・執行猶予3年の判決を受け、同日に東京拘置所から釈放された。
一般女性と入籍、6月に最初で最後のテレビ出演
5月12日に一般女性と入籍。6月に復帰作のシングル「太陽の破片」を発売してヒットし、6月22日にはフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』で歌った。これが生涯で最初で最後のテレビ出演になった。
東京ドームで一夜限りの復活ライブ「LIVE CORE」、5万6,000人
9月1日、度重なる発売延期を経て4thアルバム『街路樹』を発売。9月12日の東京ドームは一夜限りの復活ライブで5万6,000人を動員した。
『誕生』、最後のツアー、そして急逝
平成1〜
CBS・ソニーに復帰し2枚組『誕生』発売、オリコン1位
1989年7月24日に長男・裕哉が誕生。1990年1月に事務所をデビュー以来のマザーエンタープライズから浜田省吾の在籍するROAD & SKYへ移し、10月21日にレコード会社も古巣のCBS・ソニーへ戻った。5作目にして初のセルフプロデュース作となる2枚組『誕生』はオリコン1位を記録。12月19日には個人事務所ISOTOPEを設立した。
「I LOVE YOU」をシングル化、JR東海のCMソングに
デビューアルバム『十七歳の地図』の収録曲で、当時はシングル化されなかった曲。8年を経てJR東海のCMタイアップと同時に初めてシングルとして発売され、オリコン最高5位・48.4万枚と生前最大の売り上げになった。同じ3月に公式ファンクラブ「Edge Of Street」も設立。後に宇多田ヒカルやコブクロ、玉置浩二らにカバーされている。
横浜アリーナから「BIRTH TOUR」開始、10月30日の代々木が生涯最後のライブに
3年ぶりの復活ツアー。10月30日の代々木オリンピックプール公演が結果的に生涯最後のライブとなり、最後に歌ったのはオーディションでも歌った「ダンスホール」だった。12月29日に母が急逝している。
26歳で急逝
早朝、自宅マンションから約500m離れた足立区千住河原町の民家の軒先で倒れているところを発見され、午前5時45分ごろ墨田区の白鬚橋病院に運ばれた。本人が帰宅を望み、妻と兄とともに自宅へ戻ったが、午前10時ごろに容体が急変。日本医科大学付属病院で処置を受けたものの午後0時6分に死亡した。死因は肺水腫と発表された。4月30日に文京区の護国寺で行われた追悼式には3万7,500人のファンが詰めかけ、6月の初の日本武道館公演を含むツアーは中止になった。
遺作『放熱への証』発売、即日完売しミリオンセラーに
死の約2週間後に6枚目のアルバムとして発売。初回出荷45万枚に対して100万枚以上の予約が殺到して即日完売し、オリコン初登場1位、累計109.8万枚に達した。5月25日付のアルバムチャートではTOP10のうち6作を尾崎の作品が占めた。同時発売のシングル「汚れた絆」は、制作時に本人が明るい曲を選ぶよう求めて決まったものだった。
本人希望をストレートに歌った曲の方がいいと思う。明るい曲にしよう 出典
没後 ―― 歌い継がれる
平成5〜
「OH MY LITTLE GIRL」がドラマ主題歌で唯一のミリオンシングルに
1983年のデビューアルバム『十七歳の地図』の収録曲で、11年後にフジテレビ系ドラマ『この世の果て』の主題歌としてシングルカットされ、発売2週目に1週目を上回る売り上げで本人亡き後の初のオリコンシングルチャート1位を獲得。107.8万枚で唯一のミリオンシングル、最大のヒット曲となった。1996年9月には初のベストアルバム『愛すべきものすべてに』が出ている。
13回忌にトリビュートアルバム2枚を同時発売
2001年4月28日、仲間由紀恵主演の映画『LOVE SONG』で「OH MY LITTLE GIRL」「Forget-me-not」が主題歌として起用され、公式に初の映画音楽起用となった。2004年の13回忌には『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』の2枚が同時発売された。
デビュー30周年で『ALL TIME BEST』発売
2011年にはテレビ東京系で半生を描いたドラマ『風の少年〜尾崎豊 永遠の伝説〜』が放送され、2012年9月には20回忌に合わせた特別展「OZAKI20」が原宿から始まった。2013年3月に東京ドーム公演の完全版映像が発売され、11月のベスト盤はその後もロングセールスを続けている。
長男・尾崎裕哉がシンガーソングライターとしてメジャーデビュー
父と同じくシンガーソングライターとして活動する裕哉が、「始まりの街」の配信でメジャーデビューした。
映画『尾崎豊を探して』公開
佐藤輝監督。新宿ルイードでのライブから地方公演、代々木のライブ、日常の場面まで、400時間におよぶ映像資料をもとに構成されたドキュメンタリー。
没後30年企画『OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展』が松屋銀座から全国巡回
最後のツアーの音源を収めた『LAST TOUR AROUND JAPAN YUTAKA OZAKI』の発売と同日に東京の松屋銀座で開幕し、翌2023年3月の富山まで巡回した。
デビュー40周年、『十七歳の地図』LP復刻と公式MVの初公開
デビュー40周年を記念し、10月29日にテレビ朝日系『関ジャム 完全燃SHOW』が尾崎特集を放送。11月3日からはYouTubeで「15の夜」「I LOVE YOU」「卒業」などの公式MVが初めて順次公開され、12月1日に『十七歳の地図』の復刻アナログ盤とライブBlu-ray『もうひとつのリアリティ LIVE+DOCUMENTARY』が発売された。Prime Videoでレンタル・購入(有料・PR)
生誕60年、WOWOWで最後のツアーを軸にした連続特集が始まる
生きていれば60歳の誕生日となる11月29日から、1991年「BIRTH TOUR」の横浜アリーナ初日、本人インタビューを含むドキュメンタリー、代々木の最終日を順に放送。長男・裕哉は2024年から父の楽曲だけで構成する公演「OZAKI PLAYS OZAKI」を続けており、12月9日には東京国際フォーラムで第2弾を開いた。2026年2月14日には裕哉の「OZAKI PLAYS OZAKI 2.」、3月14日には東京ドーム「LIVE CORE」完全版もWOWOWで放送された。
生誕60周年記念で公式YouTubeチャンネルとTikTokが開設
9月には公式YouTubeチャンネルとTikTokアカウントが開設され、「I LOVE YOU」「15の夜」「卒業」などのMVや公式ライブ映像が順次公開される。