目次
新潟を離れ、マッキンゼーのパートナーに
昭和37〜
新潟県に生まれる
新潟市で育ち、新潟市立南万代小学校、新潟市立宮浦中学校に通った。家では父の言いつけに「はい」以外はありえず、高校まで門限は18時だったと振り返る。父は「女に教育など必要ない」という考えで、学校教育を信じていなかった。その父から「勉強しろ」と言われたことは一度もなく、家で勉強しているのを見つかると「すぐに勉強をやめて、靴を磨きなさい」と言われた。それでも父に隠れて一夜漬けをし、テストの成績はすごく良かったという。昔から、勉強でも運動でも一番にならないと嫌だったと語っている。
マッキンゼーに入社
父が指定した新潟県立新潟高校から、親が望んだ新潟大学ではなく、寮のある女子大なら出してくれるというので、津田塾大学に進んだ。4年次には奨学金で米国のブリンマー大学に1年間留学している。卒業後、先輩に誘われてマッキンゼーとボストン コンサルティング グループだけを受け、マッキンゼー・アンド・カンパニーの日本法人に入る。
本人男女差が全く無く、がむしゃらに仕事をさせてもらえそうだと感じました。 出典
マッキンゼーを辞め、ハーバード・ビジネス・スクールへ
当時のマッキンゼー・ジャパンには留学制度が無く、いったん会社を辞めて米国のハーバード・ビジネス・スクールに入った。
本人コンサルタントとしての仕事が思うように出来なかったので、逃げるようにハーバードへ行きました。 出典
MBAを取り、マッキンゼー・ジャパンに戻る
6月に修士号を取る。内定先は米国で働く企業ばかりだったが、母が病気になったこともあって帰国し、マッキンゼー・ジャパンに戻った。戻って最初の案件がうまくいかず転職を決めかけたが、上司に頼まれて最後のつもりで取り組んだ案件がうまくいった。
本人もう辞めようと思っていたので、自分の出来、不出来に意識が全くいかなかった。 出典
マッキンゼーのパートナーに
12月、34歳でマッキンゼー・ジャパンのパートナー(役員)に就く。日本人女性として3人目のパートナーだった。パートナーとしては、インターネットに関わる新規事業を手がけた。
オークションの苦戦から、モバゲータウンへ
平成11〜
— ディー・エヌ・エーを設立
クライアントに「どうしてオークションやらないのか」と提案したところ、「自分でやれば良いのではないか」と返されたのが始まりだった。3月に有限会社ディー・エヌ・エーを設立し、8月に株式会社にして代表取締役に就く。11月に始めたオークションサイトのビッダーズでは、運用テストの日に、開発を頼んだベンダーでコードが一文字も書かれていないと分かった。ここから、自分にできないものを人に頼んではいけないと学んだという。
本人ビジネスが世の中に出て、人々の役に立つまで携わりたい。 出典
ビッダーズをショッピングサイトに
ビッダーズはYahoo!を追ったが、オークションサイトの首位には届かなかった。5月、会員制のEC支援サービスを入れて、オークション&ショッピングサイトに作り替える。利用者は競売でなく物を探しに来ていると見て、満足度を上げる方に軸を移し、創業4年目に初めて月次で黒字になった。
携帯電話専用のオークション、モバオクを始める
3月、携帯電話専用のオークションサイト、モバオクを始める。モバイルへの移行を図って生まれたモバオクは急速に伸び、DeNAとして初めて首位に立った事業になった。
— 携帯電話向けのモバゲータウンを始める
モバイル事業部長の守安功は「公式サイト並みのクオリティで無料のゲームを出せば当たる」と読み、広告を収益源にしたゲームサイトの開発にとりかかった。2月7日、無料でゲームやコミュニティ機能を使える携帯電話向けのサイト、モバゲータウンを開く。30種類以上の本格的なゲームが遊び放題で、広告のクリックや友人の招待でもらえるゲーム内通貨「モバG」でアバターのアイテムを買う仕組みにした。会員は9カ月で200万人を突破し、10代が約7割を占めた。開設から1年で300万人を超えた。
本人巨大なサービスを持ったことで、社会との向き合い方を問われていく。真の一流企業とは何なのかを強く意識するようになるのも、この時期だ。 出典
看病のための退任と、ベイスターズ
平成23〜
夫の看病のため社長を退く
6月25日の株主総会をもって代表取締役社長兼CEOを退き、取締役に残る。病気療養中の夫の看病を優先するためで、後任には、モバゲータウンから名称を変えたMobage(モバゲー)などの事業を統括してきた守安功が就いた。社長の退任を伝えた報道は、「Mobageで1000億円企業に」とDeNAを紹介した。
本人家族の病気が分かり、そちらに集中しようと思った。中途半端に社長業は出来ない。 出典
DeNAが横浜ベイスターズを買い、プロ野球に参入
TBSが持つ横浜ベイスターズの株式の66.92%を65億円で取得することで合意し、球団名「横浜DeNAベイスターズ」で加盟を申請した。12月1日、日本野球機構に参入を承認される。オーナーには会長の春田真が就く見通しと報じられた。
著書『不格好経営』を出す
DeNAを起こしてからの道のりを書いた『不格好経営―チームDeNAの挑戦』を出す。同じ年の6月には、DeNAの取締役兼執行役員に就いた。
横浜DeNAベイスターズのオーナーに
社長は退いたが、DeNAの取締役として事業を補佐していた。1月、前任の春田真に代わって、球団の取締役オーナーに就く。日本のプロ野球で初めての女性オーナーだった。6月には、DeNAの取締役会長にもなった。
代表に戻り、球界と経済界で女性初の役職に
平成29〜
代表取締役に復帰
DeNAが運営していたWELQなどのキュレーションサイトに不適切な記事が含まれ、全サイトを非公開にした問題で、3月13日に第三者委員会の報告書が出た。同じ日、取締役会長として代表取締役に戻り、守安功CEOと2人の代表体制になる。会見では事業の再開について「まったくめどは立っていない」と述べた。
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起業家支援ファンドのデライト・ベンチャーズを立ち上げる
7月、100億円規模の起業家支援ファンド、デライト・ベンチャーズを立ち上げる。9月には株式会社デライト・ベンチャーズの代表取締役に就いた。
女性で初めてプロ野球オーナー会議の議長に
日本プロ野球のオーナー会議で、女性として初めて議長に就く。11月18日のオーナー会議の後には、議長としてオンラインで会見した。
岡村信悟が社長に、自身は執行役員を退く
4月1日付で守安功が社長を退き、横浜スタジアム社長やスポーツ事業の責任者を務めてきたCOOの岡村信悟が昇格する。南場は代表取締役会長を続け、執行役員からは退いた。コロナ禍でのプロ野球の活性化にともに取り組むなかで、岡村への信頼を強くしたと報じられた。
経団連で初の女性副会長に
3月8日に内定した新任副会長7人の1人として、6月1日の定時総会で選ばれる。前身の経済団体連合会までさかのぼっても初めての女性副会長だった。DeNAは経団連での活動実績が無く、正式に加盟したのは内定発表の直前の3月1日だった。
オーナーを務めるベイスターズが日本一に
11月3日、横浜DeNAベイスターズが日本シリーズでパ・リーグ王者のソフトバンクを破り、26年ぶりに日本一となる。親会社DeNAの創業25周年の年だった。この年の観客動員数は235万人に達した。
社長への再登板
令和8〜
社長兼CEOへの復帰を発表
5月12日、代表取締役会長から代表取締役社長兼CEOに戻る人事を発表した。同じ日の決算説明会では、「資本市場から成長企業と見られているのかどうか、非常に悔しい」と語った。6月27日付で、社長兼CEOだった岡村信悟は会長に回る。
本人組織改革を3年でやり遂げたいと考えている。 出典
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オーナー会議の議長として、選手会と初の公式会談
プロ野球のオーナー会議と日本プロ野球選手会が史上初の公式会談を開いた。議長として「画期的な会議」と評価した。9月16日のオーナー会議では、新しいコミッショナーに飯島彰己が内定したことを会見で明らかにした。
社長として組織改革に取り組む
DeNAの社長兼CEOとして、3年をめどにした組織改革を進める。DeNAでは6月から、一般社員と同じ権限を与えたAI社員を配属している。横浜DeNAベイスターズのオーナーとして、プロ野球オーナー会議の議長も務める。