目次
養子として育ち、ウォズニアックと出会う
昭和30〜
サンフランシスコに生まれ、養子に出される
シリア人の父とアメリカ人の母の間に生まれ、生後すぐに養子に出された。実の母は、育ての両親が大学を出ていないことから縁組をためらったが、2人が息子を必ず大学に行かせると約束し、数か月後に書類へ署名した。
ヒューレット・パッカードで夏のアルバイトを得る
小学4年の終わりに1学年飛び級して入った中学でいじめに遭い、一家はロスアルトスへ移っていた。13歳のこの年、周波数カウンタの部品を求めてヒューレット・パッカードのビル・ヒューレットに電話をかけ、部品と夏休みのアルバイトを得る。秋にホームステッド高校へ進んだ。
ウォズニアックと出会い、ブルーボックスを売る
友人ビル・フェルナンデスの紹介で、当時21歳のスティーブ・ウォズニアックと知り合う。無料で長距離電話をかけられる違法な装置ブルーボックスをウォズニアックが作り、ジョブズが学生を相手に1台150ドルで売った。200台余りを売ったが、銃で脅されて装置を奪われたのを機に販売をやめている。のちにジョブズは、この商売の経験が無ければAppleは生まれなかったのは「100パーセント確実」だと語った。
リード大学に入り、半年で退学する
オレゴン州のリード大学に入学。労働者階級の両親の蓄えが学費に消えていくことに価値を見いだせず、半年で退学した。その後も1年半ほど大学にとどまり、友人の部屋の床で寝起きし、コーラの瓶を店に返して小銭を集めながら、興味のある講義だけに潜り込む。その一つが、カリグラフィー(西洋書道)の講義だった。
本人多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。 出典
アタリに入社し、インドへ渡る
インドへの旅費を稼ごうと、ゲーム会社アタリに押しかけ、40人目の社員として時給5ドルの技術者になった。リード大学の友人ダン・コトケとインドに渡ったが赤痢に苦しみ、秋に帰国。曹洞宗の禅僧・知野弘文らを導師に、サンフランシスコで禅を学んだ。
アタリに戻り、ウォズニアックとゲームの回路を作る
アタリへ戻り、夏には創業者ノーラン・ブッシュネルから、ゲーム『ブレイクアウト』の回路の部品を減らす仕事を任された。ジョブズはウォズニアックに頼み、ウォズニアックは4日間の徹夜で部品を減らす。ウォズニアックによれば、ジョブズは受け取った報酬を実際より少なく伝えていた。この年、ジョブズはコンピュータ愛好家の集まりホームブリュー・コンピュータ・クラブにも通い始めた。
21歳でAppleを興し、Macintoshを世に出す
昭和51〜
ウォズニアック、ロナルド・ウェインとAppleを創業
ウォズニアックが独力で設計したコンピュータApple Iを、ヒューレット・パッカードとアタリに商品化を断られた後、自分たちで売ると決めた。ジョブズはワーゲンバスを、ウォズニアックはHP-65電卓を売って1,300ドル余りを作り、3人でApple Computer Companyを立ち上げる。販売店バイトショップのポール・テレルから、組み立て済みで1台500ドル、50台の注文を取り、部品を30日の後払いで仕入れて期限内に納めた。この売り上げを受けて、ジョブズは半田ごてを扱えない人でも買って使えるコンピュータを考え始めた。
本人スティーブ・ウォズニアックと私は、パーソナルコンピュータが欲しかったからこそAppleを始めたのです。 出典
1976年、同世代の人は
役所 広司(俳優・1956年生まれ)区役所勤めの20歳、舞台『どん底』を観る法人化し、Apple IIを送り出す
1月3日、32歳でインテルを退いていたマイク・マークラの助けを得て、新法人Apple Computer, Inc.を設立した。この年に発売したApple IIは、キーボードと筐体が一体で、テレビにつなげばすぐ使え、カラー表示もできた。マークラの勧めで学校に寄付や大幅な値引きをしたこともあり、Apple IIはAppleを世界的な企業に押し上げていく。
Appleが株式を公開する
Apple IIの売り上げは、この年に10万台を超えた。12月12日の新規株式公開は、1956年のフォード以来最高の資金調達額となり、750万株を持つジョブズは約2億5,600万ドルの個人資産を得た。
Macintoshを発表する
1979年、ゼロックスのパロアルト研究所でマウスと画面上の図で操作するGUIを見たジョブズは、1981年に次世代パソコンLisaの開発から外されると、Macintoshの開発に加わって主導した。1月24日に発表したMacintoshは、GUIとマウスを備えた初の大衆向けパソコンで、リード大学で学んだカリグラフィーの知識も設計に注ぎ込んだという。だが1年目の売れ行きは伸びず、年の後半には需要予測の誤りで過剰在庫を抱えてAppleは初の赤字を出し、社内でのジョブズの立場は危うくなった。
本人もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。 出典
Appleを去る
1983年、「このまま一生砂糖水を売りつづけたいか?それとも世界を変えたいか?」と口説いてペプシコーラから招いたジョン・スカリーと、Macintoshの販売不振の後に対立した。5月、スカリーを追い出そうとした画策が漏れ、取締役会はスカリーを支持してジョブズを全ての業務から外し、実権の無い会長職だけを残す。9月、ジョブズはAppleを去った。
本人そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。 出典
Appleを追われて、NeXTとピクサー
昭和60〜
新会社NeXTを興す
業務から外された後、スタンフォード大学でノーベル賞受賞者の生物学者ポール・バーグと昼食をとり、DNA組み換え実験をコンピュータで模擬する話から、高等教育のためのコンピュータという構想をふくらませた。新会社NeXTは教育・研究向けの高性能ワークステーションを目指す。ジョブズは決算報告を受け取るための1株を残し、Appleの株約650万株を売った。
ルーカスフィルムのCG部門を買い、ピクサーとする
ルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1,000万ドルで買い取り、ピクサーと名づけてCEOに就いた。当初の主力は約13万ドルする画像処理用のコンピュータPixar Image Computerで、買い手は医療研究機関や政府の研究所のような資金の豊かな客に限られ、例外のディズニーが数十台を買ったものの、売れ行きは伸びなかった。
NeXTの最初のコンピュータを披露する
NeXTは前年に、ロス・ペローから2,000万ドルの出資を受けていた。10月12日、サンフランシスコのデイヴィス・シンフォニー・ホールで招待制の豪華な発表会を開き、NeXTの最初のコンピュータを見せた。
ローレン・パウエルと結婚
1989年、スタンフォード大学の経営大学院で講演した際、学生だったローレン・パウエルと出会い、講演の後に駐車場で夕食に誘った。1991年3月18日、ヨセミテ国立公園のアワニー・ホテルで、禅の導師・知野弘文の司式により仏式で結婚する。9月には長男リードが生まれた。
NeXTがハードウェアから撤退する
NeXTのコンピュータは1990年に9,999ドルで発売され、英国の科学者ティム・バーナーズ=リーはこのコンピュータでワールド・ワイド・ウェブのプログラムを書いた。しかし高価なコンピュータの販売は伸びず、売れたのは約5万台にとどまる。2月10日、全社員530人のうち280人を解雇してハードウェア部門をキヤノンに売り、NeXTはソフトウェアの会社に転じた。
ピクサーの『トイ・ストーリー』が公開される
1991年にディズニーと劇場用作品3本の契約を結び、全編をコンピュータ・グラフィックスで描いた長編アニメ映画『トイ・ストーリー』を11月22日に公開した。公開までの4年間でピクサーに5,000万ドルを投じたジョブズは「こんなに金がかかるとは思っていなかった」と打ち明けている。作品は長編映画をまるごとコンピュータで作れることを示し、公開直後にピクサーは株式を上場、ジョブズは再び多額の資産を得た。ピクサーはその後、ディズニーとの提携で興行の大ヒットを重ねていく。
AppleがNeXTの買収を発表し、ジョブズが戻る
次期OSの開発に行き詰まったAppleは、土台となる技術を外に求めていた。12月10日、NeXTと、元Appleフランス法人トップのジャン=ルイ・ガセーが率いるBeのOSを比べるプレゼンテーションが開かれ、20日にAppleはNeXTの買収と、NEXTSTEPを次期OSの土台にすることを発表した。ジョブズは非常勤の顧問としてAppleに戻る。
暫定CEOとして戻り、iMacとiPodを出す
平成9〜
暫定CEOに就く
1997年2月、NeXTの買収が完了した。7月にギル・アメリオがCEOを退くと、ジョブズは後任探しの間の指揮を引き受け、8月のMacworld Expoでマイクロソフトから1億5,000万ドルの出資を受ける提携を発表した。9月16日、Appleはジョブズを暫定CEOに任命したと発表する。Appleを去ってから、ちょうど12年後だった。前の四半期に7億ドルを超す赤字を出していたAppleで、不振の事業を打ち切り、数百人を解雇して、製品をプロ向けと一般向けのデスクトップとノートに絞った。
iMacを発表する
5月6日に発表し、8月15日に出荷を始めた一体型のiMacは、ボンダイブルーの半透明の外装をまとい、フロッピーディスクを廃して周辺機器をUSBだけでつなぐ1,299ドルのコンピュータだった。ジョブズ復帰後の最初のデスクトップで、英国出身のデザイナー、ジョナサン・アイブと初めて目に見える形で組んだ製品でもある。発売20週で80万台を売ってAppleで最も速く売れたコンピュータとなり、このヒットはAppleの復活を強く印象づけた。
Mac OS Xを発売する
前年のMacworld Expoで暫定の肩書きを外し、それまで拒んでいたCEOの職を正式に引き受けていた。基本給は年1ドルだけで、「世界でもっとも給与の安い最高経営責任者」と呼ばれる。3月に発売したMac OS Xは、NeXTのOPENSTEPとカリフォルニア大学バークレー校のBSD Unixを土台に、Macの基本ソフトを一から作り直したOSだった。この年にはバージニア州タイソンズコーナーに、初めての直営店も開いている。
iPodを発表する
10月23日、5GBのハードディスクに最大1,000曲を収め、ポケットに入る携帯音楽プレーヤーiPodを発表した。曲はiTunesを通じて同期する仕組みで、価格は399ドル。年末までに10万台以上が売れる。ジョブズはiPodを足がかりに、Appleをコンピュータの外の家電へ広げようとし、iPodは2011年10月までに世界で3億台を超えて売れた。
iTunes Music Storeを開く
会費なしで、1曲99セントで曲を買ってダウンロードできるオンラインの音楽店を開いた。開店時にはBMG、EMI、ソニー、ユニバーサル、ワーナーなどの20万曲以上をそろえる。違法コピーが広がるなか、ジョブズは懐疑的なレコード会社の幹部たちに、iPodとiTunesの組み合わせが合法で利益の出る代わりになると説き、1曲99セントの均一価格を認めさせていた。販売曲数は2011年10月までに160億曲を超えた。
本人消費者は犯罪者のように扱われることを好まないし、アーティストは価値ある作品が盗まれることを望んでいません。 出典
膵臓がんの手術、そしてiPhoneとiPad
平成16〜
膵臓の腫瘍の摘出手術を受ける
2003年に膵臓の神経内分泌腫瘍と診断された。手術で取り除ける珍しい型だったが、ジョブズは9か月にわたって手術を拒み、ジュース断食など効果の確かめられていない方法を試した。7月に摘出手術を受け、8月1日の社員へのメールで成功を伝える。放射線治療や化学療法は要らず、療養する8月の間は、世界の販売と業務を統括していたティム・クックが会社を率いた。
本人人生で死にもっとも近づいたひとときでした。 出典
スタンフォード大学の卒業式で講演する
大学を卒業していない自分の歩みから、点と点をつなげること、愛と敗北、死という3つの話をした。リード大学の退学とカリグラフィー、Appleからの追放、がんの診断を語り、若い頃に出会ったThe Whole Earth Catalog最終号の背表紙にあった別れの言葉を引いて、「ハングリーであれ。愚か者であれ」と締めくくる。生い立ちや闘病を織り交ぜたこのスピーチは、広く感動を集めた。追放については、会社を発展させる重圧が、もう一度挑戦者になる身軽さに変わったと振り返っている。
ディズニーがピクサーを買収
1月、前年にディズニーのトップに就いたボブ・アイガーとともに、ディズニーが株式交換によってピクサーを74億ドルで買収すると発表した。5月に買収が完了すると、ジョブズは約7%の株を持つディズニーの個人筆頭株主となり、役員に加わる。最初に投じた1,000万ドルは、70億ドルを超える価値になっていた。
iPhoneを発表する
1月9日、Macworld Expoの基調講演で、携帯電話、タッチ操作のワイドスクリーンiPod、インターネット通信機器の3つを1台にまとめたiPhoneを発表し、同じ場で社名からComputerを外すことも明らかにした。米国では6月29日に発売され、店の前には何日も前から行列ができた。2008年7月にはアプリを配るApp Storeが始まり、ジョブズがCEOを退く2011年までに、携帯電話事業はAppleの総売上高の5割を占めるまでになった。
CEOを休職し、肝臓の移植を受ける
前年に痩せた姿が報じられ、健康を案じる声が出ていた。1月6日に体重の減少はホルモンの異常によると書簡で説明したが、14日には6月末まで治療に専念するための休職を発表する。テネシー州メンフィスのメソジスト大学病院で肝臓の移植を受け、病院は6月23日、本人の了承を得て公表した。回復は順調で、見通しも極めて良いとされた。
iPadを発表する
1月27日、ウェブ、電子メール、写真、動画、電子書籍などを指で扱える板状の端末iPadを発表した。開発はiPhoneより前に始まっていた。厚さ約1.3cm、重さ約680gで、価格は499ドルから。4月3日に発売され、1年のうちに10万本を超える専用アプリが作られた。ジョブズが手がけた最後の大きな製品発表となった。
CEOを辞任し、会長に退く
1月17日、本人の求めで再び病気療養のための休職に入り、日々の業務をティム・クックに任せていた。8月24日、取締役会に宛てた手紙で、CEOとして職務と期待に応えられなくなったとして辞任を伝え、後任にクックを強く推す。クックがCEOとなり、ジョブズは取締役会の承認を得て会長に就いた。この月、Appleは時価総額でエクソンモービルを抜き、世界最大の企業になっていた。
本人Appleの最も輝く、最も革新的な日々はこれからだと信じています。 出典