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稲盛 和夫

いなもり かずお

稲盛 和夫

技術者として京都セラミックを興し、第二電電を立ち上げ、晩年に引き受けた日本航空の会長として2年8カ月での再上場を見届けた。

昭和7年生まれ ・ 鹿児島県鹿児島市出身 ・ 1932–2022 ・ 没年90歳

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1932(昭和7) 鹿児島市薬師町に生まれる1944(昭和19) 中学受験に失敗し、肺浸潤の床で『生命の実相』を読む1948(昭和23) 鹿児島市高等学校第3部に進み、紙袋の行商を始める1951(昭和26) 大阪大学の受験に失敗し、鹿児島県立大学工学部へ1955(昭和30) 京都の碍子メーカー・松風工業に入り、研究に打ち込む1958(昭和33) 上司と衝突して松風工業を辞め、新会社の設立へ1959(昭和34) 京都セラミックを創業京セラ創業1961(昭和36) 高卒社員の団体交渉を受け、会社の目的を考え直す1963(昭和38) 滋賀工場が完成し、アメーバ経営が始まる1966(昭和41) 社長に就任し、IBMの大型受注をこなす1967(昭和42) 経営理念を正式に定める1969(昭和44) フェアチャイルドの試作依頼を受け、半導体パッケージに賭ける1971(昭和46) 大阪・京都の証券取引所に上場1975(昭和50) 京都セラミックの株価が全国首位に1979(昭和54) 電子機器・通信機器メーカーをグループに迎える1982(昭和57) 社名を京セラに改める1983(昭和58) 京都の若手経営者の勉強会・盛友塾が発足1984(昭和59) 私財約200億円を投じて稲盛財団を設立1984(昭和59) 第二電電企画(現・KDDI)を設立し、通信事業に参入第二電電1985(昭和60) 国際賞・京都賞を創設1987(昭和62) 関西セルラーを設立し、携帯電話の事業へ1989(平成元) 初の著書を出し、盛友塾は盛和塾に1990(平成2) 米国の電子部品メーカーAVXを合併1994(平成6) 京都パープルサンガを設立し、鹿児島大学に稲盛会館を寄贈1997(平成9) 名誉会長に退き、円福寺で在家得度得度2000(平成12) DDI・KDD・IDOの合併で株式会社ディーディーアイが発足2004(平成16) サンマーク出版から『生き方』を出す2005(平成17) 京セラの取締役を退き、名誉会長に2009(平成21) 行政刷新会議の議員となり、世界起業家賞を受ける2010(平成22) 政府の要請で、経営破綻した日本航空の会長にJAL会長2012(平成24) 日本航空が東京証券取引所に再上場2013(平成25) 日本航空の取締役を退く2015(平成27) 日本航空の名誉顧問となり、郷里から栄誉表彰2019(令和元) 盛和塾が閉塾2022(令和4) 京都市の自宅で死去昭和平成令和
誕生 1932歿 2022
鹿児島の大学を出て京都の碍子メーカー・松風工業に入り、セラミックの研究に打ち込んだ技術者である。上司と衝突して辞めると、ついてきた部下と出資者に支えられ、1959年に京都セラミック(現・京セラ)を創業した。創業3年目、高卒社員に将来の保証を求められて三日三晩話し合ったことから、会社の目的を「全従業員の物心両面の幸福」に置き直す。1984年には通信事業への参入を前に「動機善なりや、私心なかりしか」と自らに問い続けて第二電電(現・KDDI)を設立し、65歳で在家得度したのち、2010年には経営破綻した日本航空の会長を引き受けた。2022年、90歳で亡くなった。

同世代1966年、同世代の彩木 雅夫は、『愛の終りに』で作曲家デビュー →

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歩み

泣き虫の少年、病床の一冊

昭和7〜

昭和
1932昭和71月21日
満0歳誕生

鹿児島市薬師町に生まれる

7人兄弟の次男。誕生日は1月21日だが、戸籍上は1月30日で、京セラの公式プロフィールは1月30日としている。子どもの頃は、忙しい母がかまってくれないと3時間も泣き続けるような甘えん坊だったが、小学校に入って環境に慣れると、ガキ大将になってケンカと遊びに明け暮れた。

1944昭和19
満12歳原点

中学受験に失敗し、肺浸潤の床で『生命の実相』を読む

鹿児島第一中等学校の受験に失敗し、国民学校高等科に入る。12歳の冬には肺浸潤を告げられ、親戚2人を結核で亡くしていたため「次は自分の番か」と死を恐れた。近所の人が持ってきた谷口雅春の『生命の実相』で「心に描いたものがそのまま現象となって現れる」という考えに触れ、結核の叔父がいる離れの前を、感染を怖がって鼻をつまんで通っていた自分だけが病にかかり、叔父を看病していた父や「そんな簡単にうつるものか」と言っていた兄はうつらなかったことを、心のありようの問題として考えるようになった。

1948昭和23
満16歳

鹿児島市高等学校第3部に進み、紙袋の行商を始める

1945年の空襲で実家を焼失した。私立鹿児島中学校を経て、新制の鹿児島市高等学校第3部に進み、家計を助けるため紙袋の行商を始める。同校は1950年の統合で鹿児島県玉龍高等学校となり、その第一期生として卒業している。

1951昭和26
満19歳

大阪大学の受験に失敗し、鹿児島県立大学工学部へ

大阪大学医学部薬学科の受験に失敗し、新設の鹿児島県立大学(のちに鹿児島大学へ統合)の工学部応用化学科に入って、有機化学を専攻した。

碍子メーカーの研究室で

昭和30〜

1955昭和304月
満23歳入社

京都の碍子メーカー・松風工業に入り、研究に打ち込む

旧帝大の学生でも就職が難しい時代で、コネの無い新設大学の学生はどこにも相手にされなかった。専攻を有機化学から無機化学に変え、教授の推薦でようやく入った松風工業は、労働争議が続く赤字の会社だった。同期が次々に辞める中、「それなら研究に没頭しよう」と考えを切り替える。翌1956年、テレビのブラウン管に使う絶縁部品、U字ケルシマの原料となるフォルステライトの合成に日本で初めて成功し、靴にくっついたパラフィンワックスから思いついた製法で製品化した。研究課は同年11月、特磁課として独立する。

1958昭和3312月
満26歳退社

上司と衝突して松風工業を辞め、新会社の設立へ

春に特磁課の主任となったが、セラミック真空管の開発が進まない中、外部から来た新任の部長に「君の経歴と技術ではそこまで。後は我々がやる。君はこれから手を引いてくれ」と告げられ、「それなら結構です」とその場で辞意を伝えた。特磁課の部下たちはついていくと言い出し、仲間で誓詞に血判を押す。退社を決めた頃、父には長い手紙で新会社の構想を書き送った。12月14日、同じ特磁課にいた同僚と結婚している。

本人和夫のする事です。かならずなしとげます。御心配なく。安心しておって下さい。二~三年先には立派になります。それ迄のしんぼうです 出典

28人の京都セラミック、経営の目的を定める

昭和34〜

1959昭和344月
満27歳創業

京都セラミックを創業

元上司の青山政次と出資を頼んで回り、宮木電機製作所の宮木男也社長、同社専務の西枝一江、常務の交川有の3人が出資した。西枝は家屋敷を抵当に入れ、銀行から1,000万円を借りている。資本金300万円、役員5人を含む28人での出発で、社長には出資者が就き、稲盛は持株4位の取締役技術部長だった。5月には松下電子工業からブラウン管部品のカソードチューブを受注し、完成品は創業当初の業績を支えた。

本人今にこの原町一になろう。原町一になったら西ノ京一の会社を目指そう。西ノ京一になったら中京一、京都一、日本一、そしてもちろん世界一だ 出典

1961昭和364月
満29歳

高卒社員の団体交渉を受け、会社の目的を考え直す

前年に入った高卒社員11人が、定期昇給やボーナスなど将来の約束を求める要求書を出し、認めなければみんな辞めると迫った。交渉は稲盛の自宅に場所を移して3日間続き、「もし私がいい加減な経営をして、だまされたと思ったなら刺し殺してもいい」という覚悟に、最後まで残ったリーダーも納得する。この一件で、会社経営とは将来にわたって社員と家族の生活を守ることだと考えるようになった。

本人できたばかりの会社なので将来の確約はできないが、必ず君たちのためになるようにする。それを信じてみないか。辞める勇気があるのならだまされる勇気はないか 出典

1963昭和385月
満31歳

滋賀工場が完成し、アメーバ経営が始まる

滋賀県蒲生町に買った7,800坪の土地に、初の自社工場となる滋賀工場が竣工した。これを機に、生み出した付加価値を総労働時間で割って部門を比べる時間当り採算制度を始め、同じ頃、会社を小さな組織に分けて独立採算で運営するアメーバ経営を取り入れる。創業から開発・製造・営業の全てを一人で指揮してきたが、規模が大きくなって見きれなくなっていた。

1966昭和414月
満34歳就任

社長に就任し、IBMの大型受注をこなす

4月、IBMの大型コンピューター、システム/360に使うIC用サブストレート(基板)の受注が決まった。2,500万個、1億4,000万円で、当時の年間売上の4分の1にあたる。5月に社長へ就き、測定装置を開発するところから陣頭指揮をとって、受注から7カ月後に試作品の合格を得た。IBMに採用されたことで信用が高まり、それまで取引の少なかった半導体・電機メーカーからも注文が来るようになった。

1967昭和42
満35歳

経営理念を正式に定める

団体交渉で考えたことを、「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」という経営理念として定めた。同じ年に『京セラ・フィロソフィー』の第1集を出している。自分の技術を世に問うための会社から、全従業員の幸福を目指す会社へと、目的を移した。

1969昭和44
満37歳

フェアチャイルドの試作依頼を受け、半導体パッケージに賭ける

米フェアチャイルド社から、LSI用のセラミック多層パッケージ50個の試作を頼まれ、「3カ月でつくれる」と引き受けた。米国の大手セラミックメーカーが半導体の将来に確信を持てず投資をためらう中、ICは大きな産業になると見て、売上70億円の会社で年7億円の設備投資を2年続ける。この年、鹿児島川内工場で多層パッケージの量産を始め、米国に現地法人も設けた。

京セラの外へ、通信と財団

昭和46〜

1971昭和46
満39歳

大阪・京都の証券取引所に上場

創業12年で、大阪証券取引所第二部と京都証券取引所に株式を上場した。翌1972年には東京証券取引所にも上場し、鹿児島国分工場を新設している。

1975昭和5012月
満43歳

京都セラミックの株価が全国首位に

12月、株価が終値3,810円で全国首位になった。9月末の自己資本比率は73.56%で、長短の借入金は無い。出資者の個人保証による1,000万円の借入で始めた会社が、16年で無借金になっていた。

1979昭和54
満47歳

電子機器・通信機器メーカーをグループに迎える

電子機器メーカーのトライデントと、通信機器メーカーのサイバネット工業が京都セラミックのグループに入った。

1982昭和5710月
満50歳

社名を京セラに改める

サイバネット工業など4社を合併し、京都セラミックから京セラへ社名を変えた。この年の経営方針発表では、影響を受けた中村天風の言葉「新しき計画の成就はただ不屈不撓の一心にあり、さらばひたむきにただ想え、気高く強く一筋に」をスローガンに掲げた。

1983昭和58
満51歳

京都の若手経営者の勉強会・盛友塾が発足

京都の若手経営者が稲盛のもとに集まって始めた勉強会で、のちの盛和塾の前身にあたる。稲盛はボランティアで塾長を務めた。塾では塾生が会社経営での重要な体験を発表し、皆で議論し合う。

1984昭和594月
満52歳

私財約200億円を投じて稲盛財団を設立

所有する京セラの株式と現金、計約200億円を出し、財団法人稲盛財団を設立して理事長に就いた。ファインセラミックスの研究開発で多くの賞を受ける中、「自分がいただくのではなく、さしあげる側にならなければ」と感じるようになっていた。個人の資産は社会からの一時的な預かり物で、いつかは社会に返すものだという考えも持っていた。

1984昭和596月
満52歳創業

第二電電企画(現・KDDI)を設立し、通信事業に参入

通信自由化を受け、長距離電話の料金の高さに疑問を感じていた稲盛は、料金が安くなれば国民のためになると考えた。社内に電気通信の技術者はおらず、参入は半年近く毎晩自問してから決めた。盛田昭夫や飯田亮ら新興企業の経営者に呼びかけ、京セラなど中核5社が責任を負う形で第二電電企画(現・KDDI)を設立して会長に就く。線路や道路を持つ他の新電電2社と違い、山頂から山頂へ電波を飛ばして東京・大阪間を結び、3社のうち最も不利だった第二電電が売上も利益も首位に立った。

本人通信事業を始めようとする動機は善なのか、そこに私心はないのか 出典

1985昭和60
満53歳創設

国際賞・京都賞を創設

稲盛財団の中心事業として、先端技術、基礎科学、思想・芸術の3部門からなる国際賞、京都賞を創設した。第1回の授賞式は三笠宮崇仁親王夫妻やスウェーデンのシルヴィア王妃が列席して開かれ、ノーベル財団に特別賞が贈られた。以後、毎年11月に受賞者を顕彰している。

1987昭和62
満55歳

関西セルラーを設立し、携帯電話の事業へ

携帯電話を人々が日常的に持ち歩く時代が来ると見て、1986年8月に移動体通信の自由化が決まると、すぐに参入を表明している。同じ地域ではNTTのほか1社しか認められず、日本高速通信とのエリア分けは難航したが、最も利用が見込まれた首都圏と中部東海圏を譲ることで決着させる。不本意な決着を、「負けるが勝ち」との思いで受け入れ、1987年に関西セルラーを設立した。その前年の1986年には、京セラの会長に就任していた。

平成 1989
1989平成元
満57歳著書

初の著書を出し、盛友塾は盛和塾に

初めての著書『心を高める、経営を伸ばす』をPHP研究所から出した。同じ年、大阪にも塾をつくるのを機に、盛友塾は盛和塾と名を改める。盛和塾大阪は、全国に塾が広がる原動力になった。

1990平成2
満58歳

米国の電子部品メーカーAVXを合併

総合電子部品メーカーを目指し、米国のAVX Corporationを合併した。経営は同社の経営陣に任せる一方、「人間として正しいことを貫く」という理念の共有に努め、AVXは5年足らずでニューヨーク証券取引所に再上場した。

1994平成6
満62歳

京都パープルサンガを設立し、鹿児島大学に稲盛会館を寄贈

京都市民からの依頼を受け、サッカークラブを運営する株式会社京都パープルサンガを設立した。同じ年、母校の鹿児島大学に、安藤忠雄が設計した稲盛会館を個人資産で寄贈している。

得度を経て、日本航空の再建へ

平成9〜

1997平成9
満65歳得度

名誉会長に退き、円福寺で在家得度

幼い頃、郷里で祖母が隠れ念仏を行う姿を見て宗教に関心を持っていた。60歳になったら仏教の勉強をしたいと考えていたが、多忙なままでは出家できないと思い、京セラと第二電電の会長職を退いて取締役名誉会長となる。尊敬する臨済宗妙心寺派の西片擔雪老師に頼み、円福寺で在家得度した。法名は大和で、雲水と共に修行を重ねている。

本人私は大会社の社長としてではなく、一人の人間として、少しはまともな人間になって死を迎えたいと思ったからです。 出典

2000平成1210月
満68歳

DDI・KDD・IDOの合併で株式会社ディーディーアイが発足

日本の通信業界にはNTTへの確かな対抗軸が要ると考え、国際電話のKDD、携帯電話のIDOとの合併を進めた。交渉は何度も頓挫しかけたが、「小異を捨てて大同につく」という理想を掲げて説得し、株式会社ディーディーアイ(2001年にKDDIへ改称)の発足に導いて取締役名誉会長に就く。同じ年、会社更生法の適用を受けた複写機メーカーの三田工業を京セラが支援し、京セラミタが発足した。9年の予定だった更生計画は2年で達成している。

2004平成16
満72歳著書

サンマーク出版から『生き方』を出す

サンマーク出版から『生き方』を出した。同じ年、児童養護施設・乳児院の京都大和の家を開いている。

2005平成17
満73歳退任

京セラの取締役を退き、名誉会長に

京セラの取締役を退任して経営の第一線から退き、盛和塾と稲盛財団の活動に軸足を移した。同じ年、鹿児島大学に稲盛経営技術アカデミー(現・稲盛アカデミー)を設けている。

2009平成21
満77歳

行政刷新会議の議員となり、世界起業家賞を受ける

「日本をよくするには政権交代が可能な国にすることが必要」との思いで野党時代から支援してきた民主党が与党になり、行政刷新会議の議員に就いた。同じ年、フランスのワールド・アントレプレナーシップ・フォーラムで世界起業家賞を受けている。

2010平成222月1日
満78歳就任

政府の要請で、経営破綻した日本航空の会長に

1月に2兆3,000億円の負債を抱えて会社更生法の適用を申請した日本航空の会長に、政府の要請を受けて就いた。航空業界の経験は無く周囲も反対したが、日本経済への影響、残された社員の雇用、国民の利便性という3つの大義を掲げ、無給で引き受ける。6月からは約1カ月で17回、約50人の幹部に自らの経営哲学を直接語った。全社員が共有するJALフィロソフィを定め、部門別採算制度を導入し、2012年3月期の営業利益は2,049億円になった。

2012平成249月19日
満80歳

日本航空が東京証券取引所に再上場

2月に取締役名誉会長へ移っていた。会社更生法の適用申請から2年8カ月で、日本航空は東京証券取引所市場第一部に株式を再び上場した。再建の過程で、連結の従業員数は2009年3月末の47,170人から、2011年3月末には31,263人に減っている。

2013平成253月
満81歳

日本航空の取締役を退く

3月19日の最後の定例会見で、31日付で取締役を退く意向を示した。再建を「まったくの(航空業界の)素人である私がここまでできると思わなかった」と振り返り、今後は企業経営を引き受けず、稲盛財団などのボランティア活動に時間を割きたいと語る。退任後も名誉会長として、月1回の業績報告会には出席する意向を示した。

本人社員が自分たちの会社を回復させたいというすばらしい熱意と努力の成果。私は横から支援しただけ 出典

盛和塾を閉じ、90歳で永眠

平成26〜

2015平成27
満83歳受賞

日本航空の名誉顧問となり、郷里から栄誉表彰

4月に日本航空の名誉顧問となった。この年、鹿児島県から県民栄誉表彰、鹿児島市から市民栄誉賞を受け、立命館大学には稲盛経営哲学研究センターが開設された。

令和 2019
2019令和元12月
満87歳

盛和塾が閉塾

6月には、稲盛財団の理事長から創立者の立場に移った。高齢で精力的に活動できなくなったことに加え、以前から「盛和塾は一代限り」と表明していたことから、36年続けた塾を年末で閉じた。閉塾時には国内56塾、海外48塾の全104塾で、14,938人が学んでいた。最後の世界大会は高齢のため欠席し、メッセージを寄せている。

本人終わりではなく、皆さんにとっての始まり 出典

2022令和48月24日
満90歳死去

京都市の自宅で死去

午前8時25分、京都市伏見区の自宅で、老衰のため90歳で亡くなった。葬儀は近親者で営まれ、京セラは30日に訃報を発表した。KDDIや日本航空もコメントを出し、中国外交部は定例会見で哀悼の意を表した。9月3日には、サンガスタジアム by KYOCERAでの京都サンガF.C.の公式戦の前に黙祷がささげられた。

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