生い立ちと学生時代
1889〜
秋田県平鹿郡大森村に生まれる
近藤正治・みつ夫妻の長男として生まれ、祖父母にあたる山下太惣吉・ひさ夫妻の養子となり山下姓を名乗る。祖父はまもなく死去し、祖母の手で育てられた。大森小学校4年を修了後、東京の実父母のもとで慶應義塾普通部に通った。
北海道帝国大学農学部を卒業
旧札幌農学校(現・北海道大学)農芸学科を卒業。同校初代教頭クラーク博士の「少年よ、大志を抱け」の校風の中で学び、在学中はのちに北海道学芸大学・帯広畜産大学の学長を務めた農学者・田所哲太郎と親交を結んだ。
貿易商として「満州太郎」に
1914〜
「山元オブラート株式会社」設立、実業家としての第一歩に
人に使われるのは性に合わないとして、官吏や満鉄への就職の道は選ばず、従兄弟の山下九助とともに発明したオブラートの新製法で特許を取得。日本鋼管社長・白石元治郎の後援を得て「山元オブラート株式会社」を設立し、キャラメル包装などで業績を伸ばした。これが実業家としての第一歩となったが、まもなく海外貿易への意欲から会社を離れることになる。
— 小島文子と結婚、「山下商店」を設立
東京・深川に貿易商「山下商店」を設立。穀物・鉄鋼の海外貿易に乗り出し、28歳にして数百万円の財を成した。同年、ウラジオストクで鮭缶の買い占めに成功したが、ロシア革命のあおりで地方新政権が船積みを許可せず、外務秘書官(当時)だった松岡洋右の協力でようやく船積みの許可を得るという綱渡りも経験した。
米騒動に伴う外米輸入に挑むも失敗
米価高騰による米騒動が各地で発生する中、上海で江蘇米を調達し外米輸入に取り組んだが、密輸だと主張する総領事の妨害で失敗に終わった。
満鉄との契約破棄や鉄材価格暴落でほぼ破産状態に
南満州鉄道(満鉄)消費組合との5万石納入契約を満鉄側に一方的に破棄され大損害を被る。さらに友人・渋沢正雄が結んだ鉄材購入契約が戦後恐慌で暴落し、連帯責任者として大負債を負い、ほとんど破産の状態に陥った。
事業家としてふたたび満鉄事業に関係
旧知の松岡洋右や永野護が満鉄の新体制に着任したことで山下商店は息を吹き返し、事業家としてふたたび満鉄の事業に関係、満州の開拓企業を助けた。
満鉄社宅2万戸の建設・管理を受注、「満州太郎」と呼ばれる
満鉄本社(大連市)の社宅2万戸の建設と管理契約を包括受注。これを機に「満州太郎」と呼ばれるようになり、事業網は日本国内はもとより満州・中国・朝鮮・台湾まで拡大した。取締役などとして関係した企業は数十社にのぼり、政財界でも幅広い交友を築いた。
故郷に「山下学館」を寄贈
故郷・秋田県大森町に山下学館を寄贈。大正15年から終戦まで20年間にわたり、郷里の大森町に奨学金を寄付し続けた。
楠木同族会会長として湊川神社に大鳥居を寄贈
楠木正成ゆかりの楠木同族会の会長として、兵庫県神戸市の湊川神社に大鳥居を寄贈した。
敗戦と喪失
昭和20〜
太平洋戦争敗戦で在外資産をすべて没収される
満州太郎として一代で築いた資産は終戦時7億5000万円(現在価値で6兆円超)にのぼっていた。太郎はこれを「国家と未来のために使う」と決意し、ロケット戦闘機「秋水」の開発支援や、大学・研究機関への3億5000万円の科学技術振興寄付を申し出る。だが資金が実際に入金されたのは8月20日、終戦のわずか5日後だった。秋水の計画は用済みとなり、寄付金も大蔵省に凍結され、在外資産そのものもすべて没収された。56歳にして無一文同然の状態に陥る。だが山下はここで終わらなかった。「おれはまだ、日本の山下にすぎない。世界の山下になる」というのが、若き日からの夢だったという。
本人おれはまだ、日本の山下にすぎない。世界の山下になる 出典
アラビア太郎への挑戦と晩年
昭和31〜
日本輸出石油株式会社を創立
産業の根幹をなす石油が100%アメリカの供給と統制に依存している現実を危惧し、日本国政府・財界の要路を回って自前での石油確保を説いて回った末、自ら石油事業に乗り出す。60代も半ばを過ぎてからの新規事業だった。
サウジアラビアからペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得
世界の予想に反し、サウジアラビアとの交渉が妥結し、44年間の海底油田開発利権を獲得した。
「アラビア石油株式会社」を創立、70歳を前に単独の海底油田開発に挑む
獲得した利権をもとに「アラビア石油株式会社」を創立。石油メジャーに拠らず日本単独で海底油田を採掘するという破天荒な事業に、古希を目前にして乗り出した。方々から資金を集めての賭けであり、一滴も油が出なければすべてを失う状況だった。この挑戦が、2年後のカフジ油田発見による一代の再起へとつながっていく。
クウェート政府と海底油田の採掘権協定に調印
アラビア石油設立後、クウェート政府とも同国沖合の海底油田の原油採掘権協定に調印。数多くの列強の中から日本に権利を与えたのは、山下の努力・人柄に加え、欧米諸国に対するアラブ人の民族感情も左右したとみられている。
— カフジ油田を発見、「アラビア太郎、100万ドルの笑顔」と世界が報道
アラビア石油は第1号井の試験採油で日産1,000kl超の出油能力を確認し「カフジ油田」と命名。2月28日にはサウジアラビア・クウェート両国政府へ商業量発見を正式通知した。この快挙は「アラビア太郎、100万ドルの笑顔」と世界中で報道された。満州で全財産を失った男が、70歳にして再び一代で財を築き上げた瞬間であり、以降も同社は石油メジャーに拠らない「日の丸油田」と呼ばれる油田の発見と採掘・輸出を進めた。
新たにフート油田を発見
カフジ油田に続き、サウジアラビア側でフート油田を発見・命名。同年11月には藍綬褒章も受章し、日の丸油田の先駆者としての実績を積み重ねていった。
勲二等旭日重光章を受章
実業家としての功績が認められ、勲二等旭日重光章を受章した(1938年に紺綬褒章も受けている)。
心筋梗塞のため78歳で死去、従三位勲一等瑞宝章を追贈
心筋梗塞のため死去。周囲に残した言葉は「俺はまだやることがある」だったという。故郷・横手市大森町の大慈寺に墓がある。死後、民間人としては珍しい従三位勲一等瑞宝章が追贈された。満州とアラビア、二度にわたり一代で財を築き上げた波乱の生涯だった。