空襲の記憶と『白蛇伝』
昭和16〜
東京・本郷に生まれる
航空機部品を作る一族企業の役員を務める家の、4人兄弟の二男として東京市本郷区(現・文京区)に生まれた。戦時中は一家で宇都宮に疎開。1945年7月の宇都宮空襲では、親類のトラックで逃げる際に子どもを抱えて駆け寄ってきた近所の女性を乗せられず、「乗せてあげて」と叫べなかったことを後年まで重い負い目として語っている。1947年には母が脊椎カリエスを発症し、以後9年間寝たきりになった。1950年に東京都杉並区永福町へ移り、運動は苦手で丸眼鏡をからかわれたが絵はずば抜けて上手く、手塚治虫や杉浦茂の漫画を愛読する漫画少年だった。
高校時代に東映動画『白蛇伝』と出会う
都立豊多摩高校に進んだ頃から漫画家になりたいと思っていたが、高校3年で観た東映動画の『白蛇伝』に感銘を受け、自分が本当に作りたいものを考え直すようになった。当時描いていた漫画は自分の不満や悩みを映した暗い内容だったという。
本人目からウロコが落ちたように、子どもの素直な、大らかなものを描いていくべきだと思った 出典
東映動画から『風の谷のナウシカ』まで
昭和38〜
— 学習院大学を卒業、東映動画にアニメーターとして入社
美術系大学を志望したが父の反対もあり、兄と同じ学習院大学政経学部へ進学。漫画サークルが無かったため児童文学サークルに入り、人形劇を企画した。1963年に卒業して東映動画にアニメーターとして入社する。新人ながら描かせれば「あきれるほどすごかった」と先輩の大塚康生が振り返る存在で、入社1年後にソ連の『雪の女王』を観てアニメーションを一生の仕事にすると決めた。1964年には労働組合の書記長となり、副委員長の高畑勲と親交を深める。
世間先輩アニメーターの大塚康生は、宮さんは最初から目立っていて周りに嫌われもしたが、描かせてみたらあきれるほどすごかった、と述懐している。
同僚のアニメーター・大田朱美と結婚
秋、東映動画の同僚で3歳年上のアニメーター大田朱美と24歳で結婚した。1967年に長男・吾朗、1970年に次男・敬介が生まれる。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』でメインスタッフに
1965年4月に製作が始まった高畑勲の初監督作『太陽の王子 ホルスの大冒険』に、労働組合主導の実験的な作品として参加。大量のイメージボードを描いて脚本作りも手伝い、入社5年目で「場面設計・美術設計」というメインスタッフのクレジットを得た。制作は労使紛争をはらんで遅れ、3年後の1968年にようやく完成したが興行は振るわなかった。
東映動画を退社しAプロダクションへ、『ルパン三世』で初の演出
『長くつ下のピッピ』の企画に参加するため、高畑・小田部羊一とともに東映動画を退社してAプロダクションに移る。ピッピは原作者の許諾が得られず立ち消えになったが、視聴率が低迷していた『ルパン三世』(TV第1シリーズ)のテコ入れで大塚康生に誘われ、高畑と共同で初めて演出を手がけた。翌1972年には『パンダコパンダ』で原案・脚本・美術設定などを担当。のちの『となりのトトロ』の原型とも言われる。
『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成
1973年に高畑・小田部とズイヨー映像(のちの日本アニメーション)へ移籍し、テレビアニメ史上初の海外ロケを経て『アルプスの少女ハイジ』を制作。全話・全カットの場面設定と画面構成を一人で担い、最高視聴率26.9%の大ヒットになった。1976年の『母をたずねて三千里』でも同じ仕事量をこなしている。
『未来少年コナン』で初めて演出(監督)を務める
NHKが放映した最初の国産テレビアニメシリーズで、初めて演出(事実上の監督)を務めた。当時シンエイ動画の役員だった大塚康生が、宮さんを支えたいと譲らずに作画監督を引き受け、毎週放送の中でオリジナルスケッチ・設定・キャラクターとメカのデザインを全話担当した。
『ルパン三世 カリオストロの城』で劇場映画の監督デビュー
テレコム・アニメーションフィルムに移り、38歳で初めて劇場映画の監督を務めた。絵コンテの4分の3を描いた時点からわずか4ヵ月半で仕上げた作品だったが、興行は振るわず、しばらく長編を任されない時期が続く。制作中に取材に来た『アニメージュ』副編集長の鈴木敏夫と出会ったのはこの時で、同誌のアニメグランプリ作品部門で3年連続1位になるなど、のちにファンの支持で名作の地位を得た。
『アニメージュ』で漫画『風の谷のナウシカ』の連載を開始
鈴木敏夫が持ち込んだ映画化企画は「原作のない作品をアニメ化してもヒットするわけがない」と却下された。そこで『アニメージュ』1982年2月号から自ら漫画版の連載を始める。同年11月22日にテレコム・アニメーションフィルムを退社した。
— 『風の谷のナウシカ』公開、オリジナル長編が大ヒット
漫画版の読者の支持を集め、徳間書店社長・徳間康快の決断で劇場アニメ化された。『カリオストロの城』のテレビ放映やエコロジー・ブームも重なって大ヒットとなり、アニメ監督の作家性が広く認識されるきっかけになった。同年4月に個人事務所「二馬力」を設立している。
スタジオジブリ設立、大ヒット作を重ねる
昭和60〜
スタジオジブリを設立
トップクラフトを前身に、徳間書店の出資を得てスタジオジブリを設立し、以後の制作の基盤とした。当初は社員を雇わず、作品ごとに70人ほどを集めて解散する方式だった。翌1986年には『天空の城ラピュタ』を公開。高年齢向けに寄っていくアニメに対し、小学生向けの古典的な冒険活劇として企画した作品だった。
『となりのトトロ』公開
「日本が舞台で、昭和30年代のオバケの話なんて誰も見ないぞ」と徳間書店に一蹴された企画を、高畑の『火垂るの墓』との同時公開という鈴木敏夫の提案で通した。興行は振るわなかったが、ぬいぐるみなどのキャラクター商品の収入が苦しい経営を支え、のちに英 Time Out 誌の「史上最も偉大な50本のアニメーション映画」で第1位に選ばれている。
『魔女の宅急便』が興収43億円、ジブリを社員化
経営難だったジブリだが、『魔女の宅急便』は興行収入43億円・観客動員264万人のヒットとなった。当初は若手監督を起用して自身はプロデューサーに回る予定だったが、監督交代を経て自ら手がけた。アニメ映画の歴代興行収入記録を塗り替えたこの成功で、作品ごとにスタッフを集めていた体制からスタジオの社員化に踏み切っている。
『紅の豚』公開
日本航空の機内上映用の30分作品として始まった企画が、構想が膨らんで93分の長編になった。興行収入54億円で再び記録を更新。自ら「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」と定義した作品だった。
本人これで僕自身はあと10年半ぐらいは元気に生きられるんじゃないかな。『紅の豚』でそんな元手を手に入れたような気がします 出典
『耳をすませば』を製作プロデューサー・脚本として送り出す
監督は宮崎の推薦で近藤喜文が務め、宮崎は製作プロデューサーとして脚本と絵コンテを兼ねた。同時上映の短編『On Your Mark』では原作・脚本・監督を担当している。
『もののけ姫』が日本の歴代興行収入記録を塗り替える
ジブリ史上最大の製作費を投じ、「ジブリを使いつぶす」ほどの覚悟で挑んだ作品。『E.T.』が15年間保持していた日本の歴代興行収入記録を塗り替えた。デジタル彩色が試験的に導入され、ジブリの制作環境が大きく変わった作品でもある。完成後の打ち上げで「これが最後の作品となる」と発言して大きく報道されたが、翌年に撤回。1998年にはいったんジブリを退社してアトリエ「豚屋」を建て、1999年に所長として復帰した。
— 『千と千尋の神隠し』が日本映画史上最大のヒットに
個人的な友人である10歳の少女を喜ばせたいという動機から作られた作品で、『タイタニック』の日本歴代興行収入記録を塗り替えた。仕上・撮影がフルデジタル化された初の宮崎作品でもある。完成記者会見では「もう長編アニメ映画は無理ですね」と再び引退を口にした。同年、三鷹の森ジブリ美術館を創立し初代館主に就いている。
世界的評価と引退宣言
平成15〜
『千と千尋の神隠し』でアカデミー長編アニメ映画賞
2002年のベルリン国際映画祭でアニメーションとして史上初の金熊賞を受けたのに続き、第75回アカデミー賞で日本映画として初めて長編アニメ映画賞を受賞した。同年1月24日の『金曜ロードショー』でのテレビ初放送は46.9%の視聴率を記録している。
ヴェネチア国際映画祭で栄誉金獅子賞
第62回ヴェネチア国際映画祭で、世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。日本人では黒澤明以来23年ぶり、史上2人目だった。同じ年、米『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれている。前年2004年11月公開の『ハウルの動く城』は興行収入196億円を記録し、ヴェネチアの金オゼッラ賞やアカデミー賞ノミネートなど国際的に高く評価されていた。
『崖の上のポニョ』公開
制作前にイギリスのテート・ブリテンで観たミレーの「オフィーリア」に感銘を受け、彩色・撮影を除いて手描きで作画した作品。興行収入155億円を記録した。2006年には、20年来望んでいた『ゲド戦記』の映画化を、鈴木敏夫の提案で長男・吾朗に監督として任せている。
『風立ちぬ』を最後に長編映画からの引退を発表
実在の人物をモデルに主人公を作った初めての作品『風立ちぬ』を7月20日に公開。9月1日にジブリ社長・星野康二が長編制作からの引退を発表し、9月6日には吉祥寺で約600人の報道陣を前に引退会見を開いて「今回は本気です」と語った。作品の間隔がずんずん開いていくのをどうすることもできなかった、というのが本人の説明だった。
本人ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。 出典
アカデミー名誉賞を受賞
この年8月にジブリは制作部門を解体していた。11月にアカデミー名誉賞を受賞。日本人では黒澤明以来24年ぶり、史上2人目で、授賞式ではジョン・ラセターがプレゼンターとして登壇し、アニメーションの歴史で誰よりも貢献した2人としてウォルト・ディズニーと宮崎駿の名を挙げた。
引退撤回、『君たちはどう生きるか』へ
平成29〜
引退を撤回し、新作長編の制作を開始
2月24日に鈴木敏夫が宮崎の長編復帰を公表し、事実上の引退撤回となった。本人は「自分は引退中であり、引退しながらやっている」と語っている。5月19日に公式サイトでスタッフ募集を始めて制作が本格的にスタートし、10月28日に早稲田大学のイベントでタイトルが『君たちはどう生きるか』だと明かされた。
高畑勲の「お別れの会」で開会の辞を読む
4月5日に高畑勲が肺がんで82歳で死去。5月15日に三鷹の森ジブリ美術館で営まれた「お別れの会」で、委員長を務めた宮崎は約1,200人の参会者を前に開会の辞を涙ながらに読み上げた。1963年、27歳の高畑と22歳の宮崎がバス停で初めて言葉を交わした日のことから語り起こした。
本人パクさん、僕らは精一杯、あの時、生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。ありがとう、パクさん。55年前に、あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない 出典
アカデミー映画博物館の開館を飾る個展に「宮崎駿展」
映画芸術科学アカデミーが建てたアカデミー映画博物館の開館を飾る最初の個展に選ばれ、イメージボードや絵コンテなど約400点が展示された。この年2月には三鷹の森ジブリ美術館の館主を退いて名誉館主となり、3月には東映動画時代からの盟友・大塚康生が89歳で急逝している。
— 10年ぶりの長編『君たちはどう生きるか』を公開
『風立ちぬ』以来10年ぶり、7年の歳月をかけた長編監督作。タイトルは吉野源三郎の小説に由来する。公開後4日間で観客動員135万人・興収21.4億円と『千と千尋の神隠し』の初動を超え、12月8日の全米公開では日本のオリジナル作品として初めて全米週末興行収入1位を獲得した。9月21日にはジブリが日本テレビの子会社になることが決まり、宮崎は取締役名誉会長に就いた。後継として長男・吾朗の名も挙がったが、宮崎という名前でジブリを支配するのは違うと最後まで反対したと鈴木敏夫が明かしている。
『君たちはどう生きるか』で2度目のアカデミー賞
1月8日のゴールデングローブ賞、2月19日の英国アカデミー賞で日本映画として初のアニメ映画賞を続けて受け、3月11日(日本時間)の第96回アカデミー賞で長編アニメ映画賞を受賞した。『千と千尋の神隠し』以来21年ぶり2度目で、手描きアニメーションとしても2作品目。全世界興行収入は2億9500万ドルに達した。
世間鈴木敏夫は受賞直後の会見で、電話口の宮崎が「日本男児として嬉しい顔を見せちゃいけない」と言いつつ喜びがこぼれていたこと、「おめでとうございます」と言うと「お互い様です」と返されたことを明かした。
マグサイサイ賞、名誉パルムドールなど栄誉が続く
4月に米『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に2005年以来2度目の選出。5月20日にはカンヌ国際映画祭でスタジオジブリに名誉パルムドールが贈られ、長男・吾朗が壇上で受け取った。8月31日、フィリピンのラモン・マグサイサイ賞財団は「アジアのノーベル賞」といわれる同賞を宮崎に授与すると発表し、作品が人間の在り方への深い理解を表現し、見る人に自省と思いやりを促していると称賛した。
本人よくわかっておりませんが、有り難うございます(5月20日、鈴木敏夫から名誉パルムドールの授与を伝えられた際のビデオメッセージでの返答) 出典
自作の「パノラマボックス」31点をジブリパークで公開
『君たちはどう生きるか』が仕上げに入った2022年6月ごろから作り始めた、箱の中に何層にも絵を配置してのぞき込む仕掛け絵箱。『風の谷のナウシカ』から『君たちはどう生きるか』までの長編と短編、オリジナルの新作を含む31点すべてが描き下ろしで、7月8日からジブリパーク「ジブリの大倉庫」で展示されている。3月17日の取材会では、見学に来た園児たちが楽しむ姿を見て「子供のためのジブリが帰ってきた!」と喜んだことを宮崎吾朗が明かした。前年2025年10月24日には『もののけ姫』の4Kデジタルリマスター版がIMAX限定で先行上映を開始し、大ヒットを受けて11月7日から全国171館(47都道府県)へ緊急拡大された。
スタジオジブリ取締役名誉会長として制作を続ける
1月に85歳を迎えた。鈴木敏夫によれば「やたら元気」で、まだ映画を作りたがっているという。長男・吾朗も血液検査の数値が自分よりいいと語る。次の長編については、鈴木は肯定も否定もしていない。