川崎の少年からロカビリー歌手へ
昭和16〜
神奈川県川崎市川崎区に生まれる
荷役請負業「丸木組」を営む坂本寛・いく夫妻の子として誕生。9番目の子であることから「九」と名付けられたという。
疎開先で常磐線の列車事故に遭遇するも難を逃れる
母の実家がある茨城県笠間へ疎開する途中、母と乗り合わせた列車が土浦駅で衝突事故を起こす。事故直前に別の車両に移っていたため助かった。この縁から笠間稲荷神社を終生信仰し、後に同神社で結婚式を挙げた。
両親が離婚、母の姓「大島」を名乗る
高校生の頃に両親が離婚し、九ら弟妹は母に引き取られて坂本から大島姓になった。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れ、物まねで仲間内の人気者となる。
日本大学高等学校在学中にロカビリーバンドへ加入
バンド・ボーイを経て「井上ひろしとザ・ドリフターズ」にボーカル兼ギターとして加入。このバンドは後に「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」と改称し、さらにその後身が、いかりや長介らを擁する現在の「ザ・ドリフターズ」となった。
日劇ウエスタンカーニバルで新人賞
第3回日劇ウエスタンカーニバルにロカビリー歌手として初出演し新人賞を受賞。同年11月には一時芸能界を離れ学業に専念しようとしたが、曲直瀬信子の説得を受けて芸能界復帰を決意し、リーダー岸部清の了承のもとドリフターズを脱退した。
ダニー飯田とパラダイス・キングに加入、ビクターレコードと契約
水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員として加入し、ビクターレコードと契約した。
— 「題名のない唄だけど」で歌手デビュー
「題名のない唄だけど」でレコードデビューしたが、この曲自体は大きなヒットにならなかった。歌手としての第一歩を踏み出した点でこの年が転機となった。
東芝音楽工業へ移籍、ソロで初ヒット
東芝音楽工業へ移籍。同年8月に発売した移籍第1弾シングル「悲しき六十才」が10万枚を売り上げ、ソロ歌手として初のヒットとなった。
「上を向いて歩こう」と世界的スターへ
昭和36〜
「上を向いて歩こう」発売
永六輔作詞・中村八大作曲によるこの曲は国内で大ヒットし、3人は「六八九トリオ」と呼ばれた。国内にとどまらず海外へ広がる糸口となった代表曲であり、後にアメリカでの快挙につながる出発点となった。
「見上げてごらん夜の星を」発表、舞台にも主演
創作ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の主題歌を発表し、自身も同ミュージカルに主演した。同年公開の同名映画にも出演している。
— “SUKIYAKI”が全米ビルボード1位を獲得
アメリカのラジオ局が「上を向いて歩こう」を放送したことがきっかけとなりキャピトル・レコードと契約、“SUKIYAKI”のタイトルでビルボードHot 100の1位を3週連続で獲得した。日本語詞の楽曲が全米チャート1位に立った唯一の例であり、坂本を一夜にして世界的スターへ押し上げた明確な転機となった。翌1964年には米国内の累計売上が100万枚を超え、日本人として初のゴールドディスクを受賞した。
「明日があるさ」発売
後に代表曲の一つとなる「明日があるさ」を発売。この曲は2000年代に缶コーヒーCMで再びヒットすることになる。
映画・舞台で幅広く活動
「男嫌い」「万事お金」(東宝)、「喜劇 陽気な未亡人」(東京映画)、「幸せなら手をたたこう」(大映東京)と映画に相次いで出演したほか、新宿コマ劇場のミュージカル「努力しないで出世する方法」でフィンチ役に主演するなど、歌手にとどまらない活動を広げた。
テレビの顔として、そして結婚
昭和41〜
「九ちゃん!」の司会を務める
日本テレビの冠バラエティ番組「九ちゃん!」(後に「イチ・ニのキュー!」に改題)の司会を1969年まで務め、歌手だけでなくテレビの顔としても親しまれるようになった。
NHK「わが歌声の高ければ」に出演
銀河ドラマ「わが歌声の高ければ」で喜劇王・榎本健一の役を演じるなど、ドラマ出演の幅を広げた。
NHK「天下御免」に杉田玄白役で出演
1972年まで続いたNHKドラマ「天下御免」に杉田玄白役で出演するなど、テレビドラマでの活動も継続した。
女優・柏木由紀子と結婚
1年の交際を経て、柏木由紀子(当時23歳)と結婚。後に長女・大島花子、次女・舞坂ゆき子の2女に恵まれた。夫婦でクイズ番組「なるほど!ザ・ワールド」に解答者として何度も出演するなど、以後は夫婦そろっての活動が公私にわたるイメージの一部となった。
NHK「新八犬伝」のナレーターを務める
連続人形劇「新八犬伝」で黒衣(狂言回し)のナレーターを1975年まで担当し、幅広い世代に声で親しまれた。
ミュージカル「君はいい人、チャーリーブラウン」に主演
チャーリー・ブラウン役で主演し、舞台俳優としても活動を続けた。
晩年、そして日航機事故
昭和56〜
「なるほど!ザ・ワールド」準レギュラーに
フジテレビのクイズ番組に妻・由紀子とともに準レギュラー解答者として出演。1985年8月13日放送の200回記念が結果的に最後の出演となった。
「懐しきlove-song/心の瞳」発売
レコーディング活動が停滞していた時期を経てファンハウスへ移籍し、その第1弾シングルとして発売。歌手活動を再び本格化させようとしていた矢先だった。結果的にこれが生前最後のシングルとなった。
「古賀政男記念音楽大賞」で入賞、将来への抱負を語る
同賞での入賞に触れ「とても嬉しかった。これからも皆さんと一緒に、いつまでも歌い続けていきたい」と、将来への抱負を語っていた。この2ヶ月後、その言葉どおりにはならなかった。
本人とても嬉しかった。これからも皆さんと一緒に、いつまでも歌い続けていきたい 出典
— 日本航空123便墜落事故により死去
元マネージャーの選挙応援に向かうため搭乗した日本航空123便が群馬県御巣鷹の尾根に墜落。本来は全日空を利用する予定だったが、当日は満席で急きょ確保されたのが同便だった。坂本は43歳で死去し、日本中に衝撃を与えた。所持していたウォークマンが墜落現場で発見されたが、遺言のようなものは録音されていなかった。
追悼、そして歌い継がれる存在に
死去直前に司会を務めていたテレビ新広島「クイズクロス5」は、しばらくの間同局アナウンサーが代行し、1986年1月からは妻・由紀子が司会を引き継いだ(番組は1988年まで継続)。「上を向いて歩こう」や「明日があるさ」は没後も多くの歌手にカバーされ、NHK紅白歌合戦でも度々追悼の形で歌われ続けている。