大阪の少年期と東京大学時代
昭和1〜
大阪府大阪市東淀川区に生まれる
母がキリスト教徒だったことから「口」に「十字架」を組み合わせ「田」と名付けられたという。3歳の時に千里山へ移住した。
旧制松江高校を経て東京大学法学部へ入学
旧制北野中学卒業後、戦火が激しくなり大阪を離れる。旧制松江高校を経て東京大学法学部に進んだ。
在学中に輸入雑貨販売店「藤田商店」を設立
学費と生活費を稼ぐための通訳の仕事を通じてユダヤ人商人たちと交流し、独自の「ユダヤ商法」を学んだ。東大2年の時に割り当てられた外貨でヨーロッパへ渡り輸入業を始め、在学中に藤田商店を興す。
東京大学法学部を卒業
在学中に始めた輸入雑貨業を本格化させ、経営者としての道を歩み始める。
輸入商からマクドナルド創業へ
昭和36〜
株式会社化し、ロンシャンやディオールの輸入を開始
藤田商店を株式会社に改組。ハンドバッグや旅行鞄など海外ブランド品の輸入を手がけ、ブランド商品のパイオニア的存在となった。
納期厳守のためボーイング707をチャーター
アメリカンオイルから受注したナイフ・フォーク300万本の納品が国内生産の遅れで間に合わなくなり、採算度外視で航空機をチャーターして納期を守った。この一件が世界のユダヤ人商人の間で信用を広め、「銀座のユダヤ人」と呼ばれる由来になったという。
東京タワー蝋人形館を開設
本業の輸入業に加え、事業の幅を広げた(2013年9月に閉館)。
日本マクドナルドを設立、代表取締役社長に就任
アメリカ本社の反対を押し切り、「McDonald's」の表記を発音に忠実な「マクダーナルズ」ではなく、日本語で馴染みやすい3・3の韻を踏む「マクドナルド」に決めるなど、独自の判断で日本進出を主導した。
日本マクドナルド第1号店を銀座にオープン
銀座三越との1年に及ぶ交渉の末、百貨店1階への出店が決定。開業初日から1日1万人が来店する社会現象となり、日本のファストフード市場の出発点となった。
著書『ユダヤの商法 世界経済を動かす』を出版
「78:22の法則」など独自の商売哲学を説いた同書はベストセラーとなり、後に実業家となる柳井正や孫正義らにも大きな影響を与えたとされる。
多角展開とハンバーガー王の時代
昭和51〜
店舗数105店に拡大
直営・都市圏(東京・大阪・名古屋)集中出店・専用工場による安定供給の三位一体戦略で、1971年の5店舗から急拡大した。
店舗数212店に拡大
テレビ広告と出店網を連動させる戦略が奏功し、業界内でも独自の経営手法として注目された。
外食産業で初めて売上高1,000億円を突破
低ロイヤリティ・直営中心の独自路線が実を結び、日本マクドナルドは外食産業のトップ企業に成長した。
藍綬褒章を受章
実業家としての功績が評価された。
藤田商店代表取締役会長に就任
日本マクドナルド社長と兼務しながら、創業の藤田商店の経営にも引き続き携わった。
日本トイザらスを設立
米国トイザらスとの合弁で玩具小売業に参入。既存の商店街との摩擦から出店を巡る規制緩和論争を招くなど、日米の流通摩擦の象徴的な事例ともなった。
日本ブロックバスターを展開
レンタルビデオ事業にも進出し、輸入雑貨・外食・玩具小売に続く新たな事業の柱とした。
日本マクドナルド1,000号店を出店
名古屋市瑞穂区に1,000号店をオープン。積極出店は続き、1999年には全国3,000店を突破した。
デフレの勝ち組から退任、そして晩年
平成12〜
「平日半額セール」で客足を伸ばす
デフレ下でハンバーガーの平日半額など値下げ戦略を展開。日本マクドナルドは「デフレ時代の勝ち組」、藤田は「ハンバーガー王」と称された。
日本トイザらスが店頭登録
日本証券業協会への店頭登録を果たし、事業拡大が続いた。
日本マクドナルドがジャスダック市場に上場
一方で「インフレが来る」と半額セールを打ち切ると客数が減少して再値下げに転じるなど価格戦略が迷走し、BSE(牛海綿状脳症)問題の影響も重なって、この年に創業以来初の赤字となった。
経営不振と体調不良により日本マクドナルド社長を辞任
同年3月に持株会社・日本マクドナルドホールディングスの代表取締役会長兼CEOに就任していたが、7月には事業会社の社長を退いた。この期の連結決算は創業以来の最終赤字となった。
日本マクドナルドホールディングス会長を退任
株主総会後に会長職を退き、創業から32年にわたる日本マクドナルドの経営から退いた。以降、公の場に姿を見せる機会は少なくなった。
心不全のため死去
都内の病院で78歳で死去。葬儀と告別式は近親者で営まれた。遺産総額は約491億円で歴代6位だったと報じられた。長男・元と次男・完は藤田商店の経営を引き継いだ。