北海道の生い立ちと東大時代
昭和33〜
北海道に生まれる
北海道札幌南高等学校を経て東京大学経済学部に進学する。
東京大学経済学部を卒業、三菱商事に入社
総合商社に新卒入社し、社会人としてのキャリアをスタートさせる。この後、金融・保険業界を中心に転職を重ねていくことになる。
12回の転職と金融業界での実務経験
昭和55〜
野村投信、住友生命、住友信託、外資系運用会社などを渡り歩く
野村投信、住友生命保険、住友信託銀行、シュローダー投信、バーラ、メリルリンチ証券、パリバ証券など、国内外の運用会社・証券会社を次々と移った。この間に運用の現場実務とリサーチの両方に精通していった。
東洋経済「高橋亀吉記念賞」優秀賞を受賞
金融機関に籍を置きながら発表した論考が評価され、経済分析の書き手としての評価を確立する。まだ会社員だったこの時期から、後の評論家としてのキャリアの土台となる執筆活動が始まっていた。
在籍していた山一證券が自主廃業
移籍先の山一證券が、簿外債務の発覚を受けて自主廃業を発表。四大証券の一角が崩れる金融危機の当事者を経験した。
楽天証券客員研究員として評論家活動を本格化
平成10〜
第一勧業アセットマネジメント、明治安田生命、UFJ総合研究所へ
山一證券の廃業後も運用会社・シンクタンクでの勤務を継続し、資産運用と経済分析の実務経験を積み重ねた。
『お金がふえるシンプルな考え方』を出版
会社員を続けながら著書を発表し、個人向けにわかりやすい資産運用論を発信する評論家としての顔を持ち始める。
『僕はこうやって11回転職に成功した』を出版
自身の転職歴そのものをテーマにした著書を発表。当時までに11回の転職を数えており、後にもう1回加わり計12回となった。
本人会社と個人は本来対等であり、お互い離れることができる 出典
— 楽天証券経済研究所客員研究員に就任
12回目の転職で楽天証券に移り、客員研究員として資産運用に関するコラムの執筆を本格化させる。同時期に自らの会社「株式会社マイベンチマーク」を設立して代表取締役に就き、金融機関向けアドバイザリーやセミナー・講師派遣も手がけた。以後2023年まで18年にわたりこの肩書きで発信を続け、評論家としての活動拠点となった。
『「投資バカ」につける薬』を出版
業界慣行への率直な批判を含んだ著書を続けて発表し、「ヤマゲン節」と呼ばれる歯に衣着せぬ語り口で読者の支持を広げていく。
評論家として確立、闘病と晩年
平成22〜
獨協大学経済学部特任教授に就任
評論家・コラムニストとしての活動と並行して教壇にも立ち、資産運用論を学生にも伝えた。任期は2015年度までの特任教授職だった。
『全面改訂 超簡単 お金の運用術』を出版
低コストのインデックス投資と長期・分散という原則を軸にした実践書で、以後何度も改訂を重ねるロングセラーとなる。「世の中にある運用商品の99%以上は、はじめから検討に値しないクズである」という持論を平易な言葉で読者に届けた。
本人正しいことを多くの人に、面白く伝え続けたいんだよね 出典
『難しいことはわかりませんが、お金の増やし方を教えてください!』を大橋弘祐と共著
対話形式でお金の増やし方を解説する共著がシリーズ化し、投資初心者層にも読者を広げた。
獨協大学経済学部特任教授を退任
2010年度から務めた特任教授の任期が2015年度で満了し、教壇を離れた。
『定年後、お金で泣く人笑う人』を出版
老後の資産運用をテーマにした著書を発表し、退職世代に向けた発信も続けた。
食道がんの告知を受ける
自ら「がん保険は、やっぱり不要だ」と主張してきた持論を、罹患後も変えなかった。診断後も執筆・発信活動を続け、闘病の様子も率直に語った。
18年務めた楽天証券経済研究所客員研究員を退任
闘病を続けながら肩書きを離れ、以後はフリーの経済評論家として活動した。
がんが再発し、医師から「半年は保証できません」と告げられる
2022年8月の告知後にいったん治療を続けていたが、この年の春に再発が判明し、主治医から「半年は保証できません」と告げられる。その中で大学生の息子に向け「長期、分散、低コスト」という自らの投資原則と「代替可能な労働者」にとどまってはいけないというメッセージを書き残し、最期まで実践者としての一貫した姿勢を貫いた。
食道がんのため東京都内の自宅で死去
65歳没。通夜・葬儀は行わず近親者のみで見送られた。インデックス投資の普及と業界批判を貫いた評論家人生に、多くの追悼の声が寄せられた。