★ STAR TIMELINE

ほり たけお

堀 威夫

山口百恵、和田アキ子ら数多のスターを見出し、芸能界の一般企業化を成し遂げたホリプロ創業者。

昭和7年 神奈川県横浜市生まれ ・ 1932–

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2026(令和8)

ファウンダーとして名を残し、健在

経営の第一線からは退いたが、2014年に設立した一般財団法人ホリプロ文化芸能財団を通じて芸能文化の振興に携わってきた。心身統一合氣道の稽古を続ける趣味人としても知られる。その半生は多くのスターの誕生とともに、芸能界の企業化の歴史そのものである。

1932(昭和7) 横浜市に生まれる1952(昭和27) 学生バンド「ワゴン・マスターズ」でギタリストとして活動1957(昭和32) 「スウィング・ウエスト」を結成しリーダーに1958(昭和33) 渡辺プロダクションを脱退1960(昭和35) 東洋企画に参画するも内紛で追放される1960(昭和35) 堀プロダクションを設立1963(昭和38) 株式会社化し「ホリプロダクション」に改称1964(昭和39) 「2割5分経営」の哲学を得る1967(昭和42) スパイダースのアメリカ進出に挑むも失敗1968(昭和43) 大阪で和田アキ子をスカウト1972(昭和47) 「スター誕生!」決戦大会で山口百恵と出会う1975(昭和50) 「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を開始1979(昭和54) 山口百恵から突然の引退・結婚の報告を受ける1981(昭和56) ミュージカル『ピーターパン』を初演、舞台事業に進出1984(昭和59) 代表取締役会長に退く1989(平成1) 業界初の株式公開を果たす1990(平成2) 社名を「ホリプロ」に改称1997(平成9) 東証2部に指定替え2002(平成14) 東証1部への指定替えと日本経団連加入を果たす2008(平成20) 次男・堀義貴の会長就任とともにファウンダー最高顧問に2012(平成24) MBOを実施し株式上場を廃止2014(平成26) 一般財団法人ホリプロ文化芸能財団を創設2020(令和2) 株主総会をもって会社の役職から退く2021(令和3) 日本経済新聞「私の履歴書」を執筆2026(令和8) ファウンダーとして名を残し、健在昭和平成令和
誕生 1932現在
自らもバンドマンとしてステージに立った経験を持つ堀は、才能を見抜く目利きとして、守屋浩や舟木一夫、和田アキ子、山口百恵ら数々のスターを世に送り出してきた。だがその歩みは目利きだけにとどまらない。「芸能界をヤクザな虚業でなく一般企業として社会に認めさせたい」という思いから、業界に先駆けて株式を公開し、経営の透明性を高める道を選んだ。スカウトマンと経営者、二つの顔を併せ持ちながら、芸能プロダクションという業態そのものの地位を築き上げた人物である。

歩み

バンドマン時代

昭和7〜

昭和
1932昭和710月
満0歳

横浜市に生まれる

浅野学園(現・浅野中学校・高等学校)時代からサークルでバンド活動に打ち込み、1948年にはワイキキ・ハワイアンズを結成した。

1952昭和27
満19歳

学生バンド「ワゴン・マスターズ」でギタリストとして活動

明治大学商学部在学中、小坂一也、井原高忠らとともに結成された学生バンド、ワゴン・マスターズにスカウトされギタリストを務めた。

1957昭和32
満24歳

「スウィング・ウエスト」を結成しリーダーに

文化放送でのアルバイトを経て、渡辺プロダクション傘下でバンド「スウィング・ウエスト」を結成しリーダーとなる。田辺昭知(のちのザ・スパイダース)がドラムを担当していた。自らプレイヤーとして芸能界の内側を知った経験が、のちの目利きの原点となった。

1958昭和33
満25歳

渡辺プロダクションを脱退

所属していた渡辺プロダクションから独立の道を選ぶ。プレイヤーとしてでなく、マネジメント側での再出発を模索する時期に入った。

堀プロダクション創業とスター発掘

昭和35〜

1960昭和35
満27歳

東洋企画に参画するも内紛で追放される

銀座のジャズ喫茶「銀座ACB」のオーナー・谷富次郎の依頼を受け、谷や相澤秀禎(のちサンミュージック創業)らとともに東洋企画を設立。専務として実権を握り、歌手・佐々木功のマネジメントを担当し軌道に乗せるが、興行方針を巡りオーナーの谷と対立。部屋を封鎖されるなどして会社を追われた。

1960昭和35
満27歳

堀プロダクションを設立

事務所を締め出され、それでもバンド仲間らとともに堀プロダクションを設立、代表取締役に就任した。営業・制作マネジャーを兼任しながら、後ろ盾のない状態から自力で芸能界での再出発を切った、経営者としての原点。

1963昭和38
満30歳

株式会社化し「ホリプロダクション」に改称

個人事業から株式会社に組織変更し、社名をホリプロダクションに改めた。

1964昭和39
満31歳

「2割5分経営」の哲学を得る

看板タレント・舟木一夫の父親が待遇面で口出しを始め、契約を巡ってもめた際、仲裁に入った長谷川鏡次からならぬ堪忍、するが堪忍という趣旨の教えを諭される。この一件を機に、一人のスターに依存せず幅広くタレントを揃えることの大切さを痛感し、後年これを自身の経営哲学「2割5分経営」と呼ぶようになる。

1967昭和426月
満34歳

スパイダースのアメリカ進出に挑むも失敗

当初は鳴かず飛ばずだったスパイダースの一発逆転を狙い、アメリカ西海岸でプロモーションコンサートとシングルレコード発売を敢行するが、「なんで日本で一番になっていない奴がアメリカに来るんだ」と一蹴され失敗に終わる。それでも懲りず、今度はグループでなくソロでの海外デビュー戦略へと方針を転換した。

本人でもこっちは、「日本で一番になれねぇから、アメリカに来たんだよ」っていうのが正直なところ(笑)。アメリカでは見事に大失敗しましたが、でもそこで懲りなかったのが若気の至り(笑)。 出典

1968昭和43
満35歳

大阪で和田アキ子をスカウト

大阪支社長からの連絡を受け曽根崎のゴーゴー喫茶へ赴くと、踊る客たちが歌声にダンスをやめて聴き入る少女がいた。柔道経験のある和田は、アメリカの男性にはミステリアスに映るのではという期待から「君なら世界に通じる」と口説き落とした。周囲には「大柄な女性はスターになれない」という反対の声も多かったが、意に介さなかった。結果的にアメリカ進出計画は流れたが、同年10月にデビュー。大きなヒットには至らなかったが、2年後の「笑って許して」で紅白初出場を果たすブレイクにつながった。

1972昭和4712月
満40歳

「スター誕生!」決戦大会で山口百恵と出会う

オーディション番組「スター誕生!」第5回決戦大会の決勝に残った13人の中から、堀は一人の少女に目をつける。この時点ではさほど強い印象は持たなかったが、翌年これを森昌子・石川さゆりとともに「ホリプロ3人娘」として売り出す方針を固めた。それが後の大スター・山口百恵であった。

1975昭和50
満42歳

「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を開始

ホリプロの社名を全国に浸透させることを狙い、タレント志望の少年少女を対象とした全国オーディションキャラバンを開始。初代チャンピオンは榊原郁恵で、以後多くのスターを輩出する仕組みへと発展した。

芸能界の企業化と株式公開

昭和54〜

1979昭和5412月
満47歳

山口百恵から突然の引退・結婚の報告を受ける

俳優・三浦友和との交際が知られていた百恵から「友和さんと結婚します。結婚を機に引退したいと思います」と告げられ仰天するが慰留はしなかった。翌1980年10月5日、日本武道館でさよならコンサートを行い、10日後のホリプロ創業20周年パーティーの日(10月15日)をもって正式に引退。母子家庭で育った百恵の結婚式では、堀が父親役としてバージンロードを歩いた。

1981昭和568月
満48歳

ミュージカル『ピーターパン』を初演、舞台事業に進出

和田アキ子がブロードウェイ版『ピーター・パン』を観劇し、当時の堀社長に上演を勧めたことが国内公演のきっかけの一つとなった(経緯の詳細は資料により異同がある)。新宿コマ劇場25周年記念作品として、アイドルからファミリー路線への転換を模索していた榊原郁恵を主演に起用し上演した。日本初のフライング演出が話題を呼び大入りとなり、これを機に演劇も経営資源になると考え、舞台作品の制作を本格的に手がけるようになった。以後毎年上演される看板演目に育つ。

1984昭和59
満51歳

代表取締役会長に退く

社長職を後進に譲り会長職に就く。

平成 1989
1989平成1
満56歳

業界初の株式公開を果たす

長男の小学校受験で、親の職業について答えた際の面接官の妙な反応がきっかけだった。経営の健全化を進め、業界で初めて株式を店頭公開。芸能プロダクションという業態の社会的地位を大きく引き上げた転機となった。

本人芸能界をヤクザな虚業でなく一般企業として社会に認めさせたい。その為には株式を店頭公開して経営の透明度を上げるしかない。 出典

1990平成2
満57歳

社名を「ホリプロ」に改称

会長として経営の一般企業化路線を引き続き主導し、ホリプロダクションから現在の「ホリプロ」に社名を改めた。

1997平成9
満64歳

東証2部に指定替え

1989年に自ら踏み切った株式公開の路線が実を結び、業績拡大を受けて東証2部へ指定替え。

2002平成149月
満69歳

東証1部への指定替えと日本経団連加入を果たす

東証1部への指定替えを達成し、日本経団連への加入も成し遂げた。芸能界を一般企業として社会に認めさせたいという株式公開以来の目標がここで一つの到達点を迎える。同年、経営の一線から退き取締役ファウンダーに就任。

ファウンダーとしての晩年

平成20〜

2008平成20
満75歳

次男・堀義貴の会長就任とともにファウンダー最高顧問に

次男の堀義貴が会長を兼任するのに合わせ、堀はファウンダー最高顧問の立場に退いた。

2012平成24
満79歳

MBOを実施し株式上場を廃止

資金ニーズがそれほどないのに上場維持コストがかさみ、経営の冒険がしにくくなるとの判断から、マネジメント・バイアウト(MBO)を実施し上場を廃止した。株式公開を業界に先駆けて進めた本人が、自ら非公開化に踏み切った決断だった。

2014平成26
満81歳

一般財団法人ホリプロ文化芸能財団を創設

芸能文化の振興を目的とした財団を創設した。

令和 2019
2020令和26月
満87歳

株主総会をもって会社の役職から退く

ホリプロ創立60周年を迎えたこの年、株主総会をもって会社の役職から完全に退いた。同年10月15日、88歳の誕生日を迎えた。1960年の創業から60年、経営の一線から完全に退き名誉的なファウンダーの立場に専念する、堀にとって現役人生の締めくくりとなる節目だった。大切にしている言葉として「いい顔つくろう」「いつだって青春」を挙げている。

2021令和32月
満88歳

日本経済新聞「私の履歴書」を執筆

「ホリプロ創業者」の肩書で朝刊連載「私の履歴書」を執筆し、半生を振り返った。同年、文化功労者に選ばれた。

2026令和8
満93歳近況

ファウンダーとして名を残し、健在

経営の第一線からは退いたが、2014年に設立した一般財団法人ホリプロ文化芸能財団を通じて芸能文化の振興に携わってきた。心身統一合氣道の稽古を続ける趣味人としても知られる。その半生は多くのスターの誕生とともに、芸能界の企業化の歴史そのものである。

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