★ STAR TIMELINE

森保 一

もりやす はじめ

森保 一

「ドーハの悲劇」をピッチで味わったボランチ。広島を4年で3度のJ1優勝に導き、2度のW杯で日本代表を率いて、いまも2027年のアジアカップへ向けて指揮を執る。

昭和43年 静岡県掛川市生まれ ・ 長崎県長崎市出身 ・ 1968– ・ 満58歳

所属サッカー日本代表(監督) / 愛称ポイチ / 選手時代MF(ボランチ)・国際Aマッチ35試合1得点 / 学歴長崎日本大学高校

関連書籍を見る ↓
最新
2026(令和8)満58歳

アジアカップに向け、日本代表を率いる

10月5日、国立競技場でのキリンカップサッカー2026決勝でニュージーランドに2-1で勝ち、優勝した。11月の活動はシンガポール、アジアカップはサウジアラビアで行われるため、森保体制でホームで迎える最後の公式戦だった。2027年1月7日に開幕するサウジアラビアでのアジアカップでは、インドネシア、タイ、カタールと同じグループに入っている。

1968(昭和43) 静岡県掛川市に生まれる1979(昭和54) 野球少年が、小学5年でサッカーを始める1984(昭和59) 長崎日本大学高校に進む1987(昭和62) 高校の監督の推薦でマツダに入団1990(平成2) 高校時代の同級生と結婚1991(平成3) マツダとプロ契約、1部昇格に貢献1992(平成4) 日本代表に初招集、アルゼンチン戦で「17番」が注目される1993(平成5) W杯初出場を目前で逃した「ドーハの悲劇」ドーハの悲劇1994(平成6) サントリーシリーズで広島のステージ優勝に貢献1996(平成8) 骨折を経て、日本代表から遠ざかる1998(平成10) 京都パープルサンガへ期限付き移籍2002(平成14) 現役を続けるため、ベガルタ仙台へ移籍2004(平成16) 現役を引退し、広島でコーチに2007(平成19) U-20W杯にコーチとして参加し、広島トップチームのコーチに2010(平成22) アルビレックス新潟のヘッドコーチに就任2012(平成24) 広島の監督に就任し、1年目でJ1初優勝広島J1優勝2013(平成25) 最終節で逆転し、J1連覇2015(平成27) 4年で3度目のJ1優勝、クラブW杯で3位2017(平成29) 成績不振を理由に広島の監督を退任2018(平成30) 五輪代表監督を兼ねたまま、日本代表監督に就任2021(令和3) 自国開催の東京五輪で4位2022(令和4) カタールW杯でドイツとスペインを破り、2大会連続の16強カタールW杯16強2022(令和4) W杯で指揮した日本代表監督として初めて続投2024(令和6) アジアカップは準々決勝でイランに敗れる2025(令和7) 世界最速でW杯出場を決める2025(令和7) 14度目の対戦でブラジルに初勝利2026(令和8) 北中米W杯、ラウンド32でブラジルに逆転負け2026(令和8) 2027年アジアカップまで続投、後任は大岩剛監督に2026(令和8) アジアカップに向け、日本代表を率いる昭和平成令和
誕生 1968現在
長崎で育ち、高校の監督の推薦でマツダ(現サンフレッチェ広島)に入った。高校まで無名で、入団時は本社の採用枠に入れず子会社の社員だった。1992年に日本代表へ初めて呼ばれ、ボランチとして定着する。翌1993年、試合終了間際の失点でW杯初出場を逃した「ドーハの悲劇」をピッチで経験した。本人は、あれほど辛い出来事は二度と起きないと思えたことが、その後の支えになったと語っている。指導者としては古巣の広島を4年で3度のJ1優勝に導き、2018年から日本代表を率いる。2022年のカタール大会でドイツとスペインを破り、W杯で指揮を執った日本代表監督として初めて続投。2026年の北中米大会まで2大会続けてW杯で指揮を執った。

同世代1992年、同い年の内野 聖陽は、留年の年に願書を渡され、文学座研究所に入る →

歩み

野球少年から、マツダの子会社社員へ

昭和43〜

昭和
1968昭和438月23日
満0歳

静岡県掛川市に生まれる

幼少期は名古屋市、横須賀市、佐賀県唐津市と転居を重ね、唐津の小学校に入ってもすぐに移った。小学1年生から長崎市に定住する。本人は自身を「長崎生まれ広島育ちだと認識している」と語っている。

1979昭和54
満11歳

野球少年が、小学5年でサッカーを始める

隣町で少年団を指導していた先生が赴任してきて、校庭の子どもたちに声を掛けたのがきっかけ。6年生ではけが人の代わりにGKを務め、第4回全日本少年サッカー大会に出場した。

出典jfa.jp
1984昭和59
満15歳

長崎日本大学高校に進む

中学にはサッカー部が無く、近くの中学の練習ではスパイクを隠されるいじめを受け、自分の中学に部を新設した。高校は強豪の国見を考えたが、父に反対されて長崎日大へ。全国大会には出場できなかった。

1987昭和62
満18歳入団

高校の監督の推薦でマツダに入団

高校の下田規貴監督から推薦の年賀状を受け取った今西和男総監督が、コーチのハンス・オフトを伴って長崎まで視察に来た。オフトは関心を示さなかったとされるが、今西が視野の広さと先を読むパスを評価して採用を決めた。本社の高卒採用枠には入れず、子会社のマツダ運輸の社員としてプレーを始める。

平成 1989
1991平成3
満23歳

マツダとプロ契約、1部昇格に貢献

入団3年目の1989年に日本サッカーリーグ2部でデビューし、風間八宏のアシストから2得点を挙げた。1991年にプロ契約を結び、同年の1部昇格に貢献する。

17番のボランチ、ドーハの夜

平成4〜

1992平成45月
満23歳日本代表

日本代表に初招集、アルゼンチン戦で「17番」が注目される

4月にオフトが日本代表監督に就くと、初めて代表に呼ばれた。代表の常連にも名前を知られていない無名の選手で、招集を伝えた河内勝幸コーチ(当時)には「冗談はいいから」と聞き返したという。5月31日、初出場のキリンカップ・アルゼンチン戦は0-1で敗れたが、相手のクラウディオ・カニーヒアが「日本の17番が本当にイヤだった」と語り、守備的MF、いまでいうボランチの役割が注目されるきっかけになった。以後はラモス瑠偉を支えるレギュラーとなり、11月の地元広島でのアジアカップで優勝を経験した。

本人冗談はいいから、何の要件なんですか? 出典

1993平成510月28日
満25歳ドーハの悲劇

W杯初出場を目前で逃した「ドーハの悲劇」

アメリカ大会アジア最終予選の最終戦イラク戦に先発。三浦知良と中山雅史のゴールで2-1とリードして終盤を迎えたが、ショートコーナーから同点にされ、日本は3位に落ちて初出場を逃した。同部屋の柱谷哲二によれば、ホテルではベッドに突っ伏して泣き続けたという。

本人あんなに辛く、悲しい出来事はこの先、サッカーをやっている上で二度と起きないだろうと思いました。その思いが私の支えになっています。 出典

1994平成6
満25歳

サントリーシリーズで広島のステージ優勝に貢献

1993年に開幕したJリーグでは6月2日の名古屋戦で初ゴール。翌1994年のサントリーシリーズで風間とともに中盤を支え、広島のステージ優勝に貢献したが、チャンピオンシップでヴェルディ川崎に敗れた。

1996平成82月
満27歳

骨折を経て、日本代表から遠ざかる

1995年7月に右足首を脱臼骨折し、満足に活躍できない時期を過ごした。代表ではファルカン、加茂周の両監督にも選ばれたが、山口素弘がボランチに定着し、1996年2月を最後に代表から遠ざかった。国際Aマッチは35試合1得点。

1998平成10
満29歳移籍

京都パープルサンガへ期限付き移籍

経営が悪化した広島が主力の放出を迫られるなか、この年に京都の監督に就いたオフトに誘われて京都へ。当初は完全移籍で話が進んでいたが、広島のサポーターが反対署名を集め、期限付き移籍に変わった。

2002平成14
満33歳移籍

現役を続けるため、ベガルタ仙台へ移籍

1999年に広島へ戻り、広島の選手で初めてJリーグ通算200試合に出場したが、森崎和幸の台頭で先発を外れた。2002年、広島からスタッフ転身の打診を受けながら現役にこだわり、清水秀彦監督に誘われて仙台へ移った。

2004平成161月
満35歳引退

現役を引退し、広島でコーチに

2003年シーズン末に仙台はJ2へ降格し、自身も戦力外通告を受けた。2004年1月に正式に引退を表明する。同じ年に古巣サンフレッチェ広島の強化部コーチに就き、JFA公認S級コーチライセンスを取得して指導者の道に入った。

コーチ修業から、広島で3度の優勝

平成17〜

2007平成19
満39歳

U-20W杯にコーチとして参加し、広島トップチームのコーチに

2005年2月から吉田靖監督のU-19日本代表コーチを兼ね、2006年のAFCユース選手権で準優勝。2007年のU-20ワールドカップでは内田篤人、香川真司らの16強入りを支えた。9月からはミハイロ・ペトロヴィッチ監督の広島でトップチームのコーチを務める。

2010平成22
満41歳

アルビレックス新潟のヘッドコーチに就任

広島のトップチームコーチを離れ、黒崎久志監督が率いる新潟でヘッドコーチに就いた。

2012平成2411月
満44歳監督初優勝

広島の監督に就任し、1年目でJ1初優勝

広島は経営悪化からペトロヴィッチとの契約延長を断念し、後任にクラブ生え抜きで初めてのトップチーム監督として森保を選んだ。前任の攻撃的なサッカーを引き継ぎつつ守備を組織立て、前年7位のチームで11月にクラブ初のJ1年間優勝を決める。元Jリーガーの優勝監督は日本人で初めてで、Jリーグ最優秀監督賞を受けた。

本人就任1年目での優勝は考えていなかった 出典

2013平成25
満45歳

最終節で逆転し、J1連覇

2位で迎えた最終節はアウェーの鹿島戦。ホーム最終戦では15年負けなしという強さを誇っていた鹿島に勝ち、首位の横浜F・マリノスが川崎に敗れたため逆転で連覇を決めた。2年連続でJリーグ最優秀監督賞を受ける。

2015平成27
満47歳

4年で3度目のJ1優勝、クラブW杯で3位

前年の2014年はJ1で8位に終わり、3連覇はならなかった。2ステージ制が復活したこの年、チャンピオンシップ決勝でガンバ大阪に2試合合計4-3で勝ち、4年で3度目の頂点に立った。第1戦は後半アディショナルタイムに2点を奪っての逆転勝ち。開催国王者として出たクラブワールドカップでは3位に入った。

2017平成297月
満48歳退任

成績不振を理由に広島の監督を退任

6シーズン目は開幕から勝てず、第17節を終えて2勝4分11敗の17位。クラブによれば、前半戦の総括の場で本人が成績不振を理由に辞意を申し出て、慰留にも意思は変わらなかった。7月4日に7月3日付での退任が発表された。

日本代表を率いて、2度のW杯へ

平成30〜

2018平成307月
満49歳就任

五輪代表監督を兼ねたまま、日本代表監督に就任

前年10月に東京五輪を目指す代表の監督に就き、2018年のロシアW杯には西野朗監督の下でコーチとして加わって16強入りを経験した。大会後の7月26日、日本サッカー協会が新監督への就任を発表する。A代表と五輪代表の兼任はフィリップ・トルシエ以来2人目で、日本人では初めてだった。

令和 2019
2021令和38月6日
満52歳東京五輪

自国開催の東京五輪で4位

五輪の1年延期を受け、2020年7月にU-24代表の監督をコーチの横内昭展に譲ってA代表に専念したが、本大会は合宿から指揮を執った。グループリーグは全勝。8月6日の3位決定戦でメキシコに1-3で敗れ、2012年のロンドン大会と同じ4位に終わった。

本人選手たちがオリンピックを目指す中で成長する姿を見させてもらい、非常に幸せで充実した時間を過ごさせてもらった。 出典

2022令和411〜12月
満54歳W杯

— カタールW杯でドイツとスペインを破り、2大会連続の16強

7月のE-1選手権で代表監督として初タイトルを得て臨んだ本大会。11月23日の初戦でドイツに2-1で逆転勝ちし、W杯での日本初の逆転勝利を挙げた。12月1日にはスペインにも2-1で勝ち、グループ首位で2大会連続の16強へ。決勝トーナメント1回戦はクロアチアに延長PK戦で敗れた。この大会の功績で、2023年11月にAFC年間最優秀コーチ賞を受けた。

本人今日の勝利は世界のサプライズだと思うが、日本のサッカーのレベルが世界に近づいている 出典

2022令和412月28日
満54歳続投

W杯で指揮した日本代表監督として初めて続投

日本サッカー協会は臨時理事会で、2026年のW杯までの契約更新を全会一致で決めた。W杯で指揮を執った日本代表監督が大会後も続投するのは初めて。田嶋幸三会長は、ベスト8を目指すのに一番ふさわしい監督であることを理由に挙げた。

2024令和62月
満55歳

アジアカップは準々決勝でイランに敗れる

カタール開催の大会で、グループステージでイラクに敗れ、代表の連勝が10で止まる。2月2日の準々決勝ではイランに1-2で逆転負けし、8強で大会を終えた。

本人今日のところは、私自身が交代カードをうまく切れなかったのが敗因かなと思います 出典

2025令和73月20日
満56歳

世界最速でW杯出場を決める

アジア最終予選の第7節、埼玉スタジアム2002でバーレーンに2-0で勝ち、8大会連続8度目の出場を決めた。予選3試合を残しての決定は日本代表史上最速で、開催国のアメリカ・カナダ・メキシコを除けば世界で最も早い出場決定だった。

2025令和710月14日
満57歳

14度目の対戦でブラジルに初勝利

東京スタジアムでのキリンチャレンジカップで、南野拓実、中村敬斗、上田綺世の後半3得点により3-2で逆転勝ち。11月18日のボリビア戦は、歴代の日本代表監督で初めての通算100試合目の指揮だった。

2026令和86月
満57歳W杯

北中米W杯、ラウンド32でブラジルに逆転負け

4月にはウェンブリーでイングランドに1-0で勝ち、アジア勢で初めてイングランド代表を破っていた。48チームに広がった本大会はオランダと2-2、チュニジアに4-0、スウェーデンと1-1でグループ2位通過。6月29日(現地)のラウンド32ではブラジルに佐野海舟のゴールで先制したが、後半アディショナルタイムに逆転され、1-2で敗れた。

本人最後、円陣で選手に話したのは、やはりこの悔しさを胸に刻んで、次の成長につなげていこうということです。 出典

2026令和87月
満57歳続投

2027年アジアカップまで続投、後任は大岩剛監督に

日本サッカー協会は23日の理事会で、2027年1月開幕のアジアカップまでの続投を決めた。W杯の4年ごとを軸にしてきた代表監督の交代としては異例の短期契約で、大会後はU-21代表の大岩剛監督が引き継ぐ。協会は就任当初に50位台だったFIFAランキングが17位まで上がったことを挙げた。

本人結果ではもっと上に行きたかった悔しさはあるが、やり残したというものではない 出典

2026令和810月
満58歳最新

アジアカップに向け、日本代表を率いる

10月5日、国立競技場でのキリンカップサッカー2026決勝でニュージーランドに2-1で勝ち、優勝した。11月の活動はシンガポール、アジアカップはサウジアラビアで行われるため、森保体制でホームで迎える最後の公式戦だった。2027年1月7日に開幕するサウジアラビアでのアジアカップでは、インドネシア、タイ、カタールと同じグループに入っている。

関連書籍

PR

※ 一部のリンクにアフィリエイトを含みます

Supported by Rakuten Developers