京都での原点、鳥羽高から京都産業大学へ
昭和59〜
京都府宇治市に生まれる
小学3年で「小倉リトルズ」で軟式野球を始め、中学時代に投手へ転向した。
京都府立鳥羽高校で選抜大会に2年連続出場
腰痛に悩まされ公式戦の登板機会は限られたが、公立高校ながら2年時の春から3季連続で甲子園の全国大会に出場するチームに所属し、2年春・3年春の選抜大会にベンチ入りした。
京都産業大学でリーグ通算36勝404奪三振の記録を樹立
京都産業大学経営学部で2年時からエースとして活躍し、関西六大学野球リーグ通算56試合登板、36勝11敗・防御率1.33・404奪三振。36勝と404奪三振はいずれも当時のリーグ記録で、「大学ナンバーワンの右腕投手」と評価された。
— オリックスにドラフト希望入団枠で入団
契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1500万円(いずれも推定)という条件で入団し、背番号16を着用した。
本人一軍公式戦で2桁勝利を挙げて新人王を獲得したい 出典
オリックス第一次時代、リリーフの守護神へ
平成18〜
— プロ初登板、4日後に初先発・初勝利
3月26日の対西武戦(開幕カード第2戦)で救援投手として一軍デビュー。4日後の3月30日の対楽天戦で初先発・初勝利を挙げ、4月6日には自身初の完封勝利も記録した。この年は先発として7勝を挙げオールスターにも出場した。
右肘の遊離軟骨除去手術でシーズンをほぼ棒に振る
開幕直前に右肘痛を発症し、検査で遊離軟骨が判明。手術を受けてシーズンの大半をリハビリに費やし、一軍登板の機会はなかった。翌2009年には逆流性食道炎も発症するなど、故障続きの時期を過ごした。
岡田彰布監督の勧めで先発からリリーフへ転向
プロ5年目に先発からリリーフへ転向。一軍63試合に登板し防御率1.67・パ・リーグ救援投手最多の101奪三振を記録した。
世間「若いし、球に勢いがある。いけるよ」(岡田彰布監督)
本人(2026年の引退表明時に振り返って)岡田さんのおかげです 出典
最優秀中継ぎ投手を初受賞、リーグ新記録の43ホールド
パ・リーグ最多の72試合に登板し、セットアッパーとして43ホールド・49ホールドポイントのリーグ新記録を樹立して最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。同年12月には交際していた女性と結婚した。
クローザーとして最多セーブを初受賞、40セーブのリーグ新記録
2012年終盤にクローザーへ転向し、2014年には一軍62試合に登板してシーズン40セーブのパ・リーグ新記録(当時)を樹立。1勝6敗と勝敗には恵まれなかったが、最多セーブのタイトルを初めて獲得した。
不振を経てクローザーに復帰、31セーブ
2015年は救援失敗が相次ぎ中継ぎへの再転向も経験する不振のシーズンだったが、翌2016年に開幕からセットアッパーを務めた後クローザーへ復帰。7月以降は無失点を続け、リーグ2位の31セーブ・防御率1.92でシーズンを終えた。
第4回WBC日本代表に選出
投手では最後の選出で日本代表入り。チーム最多の6試合に登板し、通算投球回数を上回る7奪三振を記録するなど、初の国際舞台で評価を上げた。
NPB史上13人目の通算150セーブを達成、海外FA権を行使
8月27日の対西武戦でシーズン23個目のセーブを挙げ、NPB史上13人目となる一軍公式戦通算150セーブを達成。シーズン終了後の11月7日には海外FA権の行使をNPBに申請し、メジャー挑戦への道を選んだ。
アリゾナ・ダイヤモンドバックスと2年契約
海外FA権行使後、WBCでの投球内容も評価されメジャー複数球団から獲得を打診され、ダイヤモンドバックスと2年契約を締結。背番号はWBC日本代表時代と同じ66とした。
メジャーリーグ挑戦
平成29〜
26試合連続無失点、MLB公式戦で日本人投手歴代2位の記録
5月6日から7月3日までの26登板連続で無失点を記録。これは上原浩治の27試合連続に次ぐ、MLB出場経験がある日本人投手として歴代2位の記録だった。レギュラーシーズン通算75試合に登板し、防御率2.44・ナ・リーグ3位の32ホールドを記録。9月にはクローザーにも転向し、地元記者からは「ダイヤモンドバックス新人王」に選出された。
シアトル・マリナーズと契約、日本人メジャーリーガー初の背番号6
ダイヤモンドバックスでは2年目に不振に陥りFAとなった後、マリナーズとクローザー起用を見越した単年契約を結んだ。背番号は日本人メジャーリーガーとして初めての「6」。新型コロナウイルスの感染拡大でキャンプが中断され自身もPCR検査で陽性となる中、8月に移籍後初登板を果たした。
オリックス復帰、パ・リーグ3連覇と日本一
令和3〜
オリックスと復帰契約
3年間のメジャー挑戦を経てオリックスに復帰。一軍46試合に登板し29セーブ・防御率2.30で、オリックスとして1996年以来25年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献した。日本シリーズには11月25日・27日に登板し、プロ16年目にして初めての日本シリーズ登板でセーブも記録した。
本人(オリックスでもMLBでも)優勝したことがなかったので、『優勝する』という一番の目標を達成できただけでも、オリックスに帰ってきて良かった 出典
— NPB通算200セーブを史上最年長38歳2か月で達成、日本シリーズ初制覇
6月2日の対DeNA戦で、NPB史上7人目となる一軍公式戦通算200セーブを史上最年長で達成。この年はチームのパ・リーグ連覇にも貢献し、10月30日には自身にとって初めてとなる日本シリーズ制覇を経験した。
— 日米通算250セーブを史上最年長で達成、オリックス選手として初の名球会入り
10月2日の対日本ハム戦でシーズン29個目のセーブを挙げ、名球会入会条件のNPB/MLB公式戦通算250セーブ(史上4人目)を歴代最年長の39歳6か月で達成。パ・リーグの球団に所属する選手としても、オリックス在籍中に名球会資格を得た選手としても史上初だった。チームはこの年パ・リーグ3連覇を果たした。
投手コーチ兼任と引退
令和6〜
不振の2024年を経て、選手兼任の投手コーチに就任
2024年は不振から登録抹消が続き一軍に定着できずシーズンを終えたが、2025年10月30日に球団が発表した新コーチングスタッフで、選手を続けながら投手コーチを兼任することが決まった。
投手コーチ兼任1年目の開幕カードで通算1000奪三振を達成
3月29日の対楽天戦で通算1000奪三振を達成。250セーブと1000奪三振の同時達成は史上初の記録となった。
— 右太もも裏の肉離れを機に現役引退を表明
4月に登録抹消されて以降一軍登板の機会は限られ、7月9日のファーム戦を最後に右太もも裏の肉離れを負った。「基本的にずっと、1軍の勝っている試合で投げてきた。それが徐々にできなくなってきて、僕が(投手の)一枠を取っていることはどうなのか…」と胸中を語り、7月下旬に引退を決断。8月9日に球団が発表した。
本人もう十分。本当に長いこと、面倒を見てもらいました。オリックスの球団、出会いに感謝したいです 出典
投手兼投手コーチとして最終シーズンを過ごす
9月25日の対ソフトバンク戦(京セラドーム大阪)で引退記者会見と引退セレモニーが行われる予定。日米通算852試合登板・258セーブ・205ホールドという21年間のプロ野球生活を締めくくる。