生い立ちと奨励会
昭和45〜
埼玉県所沢市に生まれる
幼稚園に入る頃に東京都八王子市へ移った。小学1年のとき近所の同級生に駒の動かし方を教わった。家では両親と妹の3人が「連合軍」を組んで羽生1人と対戦し、形勢が悪くなると盤を180度回して指し継ぐのが家族のルールだった。
小学2年で八王子将棋クラブに通い始める
将棋に熱中する姿を見た母が夏休みの小中学生大会に申し込み、これが大会デビューとなった。1勝の後2連敗を喫し、それをきっかけに10月から毎週末八王子将棋クラブに通うようになった。席主は昇級の楽しみを与えようと、最下級の7級よりさらに下の14級から始めさせた。棋力はそこから急速に伸び、3年生で初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段とアマチュア強豪の域に達した。
小学生将棋名人戦で優勝、奨励会に入る
奨励会入りを相談すると、道場の師範代・中嶋克安は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という条件を出した。6年生の春にその優勝を果たした。対局が行われたNHKのスタジオから、母はすぐ二上達也九段に電話を入れた。同年12月に6級で奨励会に入会。前年の小田急将棋まつりの準決勝で破った森内俊之とは、この頃からのライバルだった。
四段に昇段、史上3人目の中学生棋士に
三段で13勝4敗を挙げ、当時の規定により四段に昇段。加藤一二三、谷川浩司に続く中学生でのプロ入りだった。都立富士森高校に通いながら対局を続けたが出席日数が足りず、都立上野高校の通信制に移って卒業した。年度が明けた1986年度は40勝14敗、勝率0.741で全棋士1位となり、将棋大賞の新人賞と勝率一位賞を受けた。
十代でタイトルへ
昭和61〜
— NHK杯で名人経験者4人を破って優勝、名が広く知られる
第38回NHK杯戦で大山康晴、加藤一二三、谷川浩司、中原誠と当時現役の名人経験者4人をすべて破って優勝。五段だった羽生の名は、この勝ち上がりで広く知られるようになった。この1988年度は80局64勝、勝率0.800、18連勝と対局数・勝利数・勝率・連勝の4部門を独占し、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少の18歳で受賞。無冠の棋士の受賞は初めてだった。
— 竜王を奪取、19歳2か月で初タイトル
第2期竜王戦で3組から挑戦者決定トーナメントを勝ち上がり、研究会「島研」で世話になった初代竜王・島朗に挑戦。持将棋1局を含む全8局を4勝3敗で制し、名人と並ぶ序列トップの竜王に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は当時の最年少記録。翌1990年11月に谷川浩司に竜王を奪われて一度は無冠となるが、4か月後の1991年3月に棋王を獲得し、以後27年9か月にわたりタイトルを持ち続けることになる。
七冠独占
平成4〜
王座を奪取し、初の複数冠に
第40期王座戦で福崎文吾から奪取し、王座・棋王の二冠となった。ここから王座戦の長い連覇が始まり、のちに大山康晴の同一タイトル連覇記録を塗り替える。同年の竜王戦では三冠の谷川浩司を破った。森下卓は、これで「タイトル保有の図式が逆転」したと評している。
名人を奪取し、史上初の六冠に
1993年度に棋聖・王位を奪取し、A級初参加で名人挑戦権を得た。第52期名人戦の相手は、前年に史上最年長で初の名人となった50歳の米長邦雄。3連勝2連敗の後の第6局で下し、名人位に就いた。同年度に竜王も奪還して史上初の六冠王となり、残るタイトルは谷川浩司の王将ただ一つとなった。
王将戦第7局で谷川浩司に敗れ、七冠を目前で逃す
第44期王将戦は青森・奥入瀬での最終第7局までもつれ、2日目に千日手が成立して指し直しとなった。阪神・淡路大震災で被災したばかりの谷川に阻まれ、七冠を逃した。タイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてだった。対局場には将棋界の取材としては異例の約150名の報道陣が詰めかけていた。
— 史上初の七冠独占を達成
1年間で六冠すべてを防衛して再び谷川浩司の持つ王将位に挑み、第1局から4連勝。山口県豊浦町での第4局を82手で制し、25歳で竜王・名人・棋聖・王位・王座・棋王・王将の七冠を独占した。第4局には1日目から170名を超える報道陣が詰めかけ、2日目には250名近くに達した。3月には橋本龍太郎首相から内閣総理大臣顕彰を受ける。独占は7月30日の棋聖失冠までの167日間で、本人は「通常に戻れるのでほっとした」と語っている。
本人時間がたってこないと、七冠王という実感はわかないと思う 出典
畠田理恵と結婚
相手はNHK連続テレビ小説『京、ふたり』でヒロインを務めた元俳優。1995年7月に婚約を発表し、東京・千駄ヶ谷の鳩森神社で挙式した。指輪の交換をしない地味な式だった。将棋関係者ら約130人を招いた披露宴では、新婦を「きれいですね」とたたえた。1997年7月に長女、1999年11月に二女が生まれている。
記録を塗り替える
平成9〜
NHK杯決勝で村山聖を破り4度目の優勝
第47回NHK杯戦の決勝は、同じ年の8月に世を去る村山聖との最後の対局となった。終盤で村山に悪手が出て3手後に投了。二人の通算対戦成績は羽生の7勝6敗で終わった。
竜王戦で藤井猛に敗れ、タイトル戦15回連続獲得が止まる
1997年度の王位戦から2000年度の王座戦まで、登場したタイトル戦15回すべてで獲得(防衛14、奪取1)していた。第13期竜王戦で藤井猛竜王への挑戦に敗れ、この連続記録が途切れた。
一冠に後退したのち王位を奪還、年度内に四冠へ復帰
2003年度の竜王戦・王将戦、2004年度の名人戦と森内俊之に立て続けに3つのタイトルを奪われ、11年9か月ぶりに王座だけの一冠となった。しかし王位を谷川浩司から奪って一冠の期間を89日で終えると、王座を防衛し、冬には王将・棋王もストレートで奪取して四冠へ戻った。2003年2月には通算800勝を史上最速・最年少で達成している。
名人復位で十九世名人の資格、史上初の永世六冠に
第66期名人戦第6局で森内俊之を破り、名人位と三冠に復帰。名人通算5期で永世名人(十九世名人)の資格を得て、大山康晴・中原誠の永世五冠を超える永世六冠となった。前年12月には通算1000勝を史上最年少・最速で達成している。残る永世竜王を懸けた同年の竜王戦は渡辺明との初代永世竜王決定戦となり、将棋界初の3連勝4連敗を喫して持ち越した。
タイトル獲得81期で歴代単独1位に
前年2011年9月に王位を奪取して通算80期とし、40歳で大山康晴の記録に並んでいた。第83期棋聖戦で初挑戦の中村太地を3連勝で退け、81期として単独1位に立つ。3月にはNHK杯4連覇で通算優勝10回に達し、将棋界初の名誉NHK杯選手権者の称号も得ている。
森内俊之を4連勝で破り3度目の名人復位、通算90期に
第72期名人戦は4年連続9回目の森内との顔合わせ。ストレートで名人に復位し、約4年ぶりの四冠となった。3度の復位は名人戦史上初。王座戦で豊島将之を退け、タイトル獲得数は90期に達した。
— 竜王を奪取し、史上初の永世七冠を達成
この年は王位・王座を相次いで失い13年ぶりの一冠に後退していたが、第30期竜王戦で渡辺明を4勝1敗で破って15期ぶりに竜王に復位。通算7期で永世竜王の資格を満たし、7つのタイトルすべてで永世称号を持つ初の棋士となった。鹿児島県指宿市での終局は午後4時23分。名誉NHK杯選手権者と合わせ8つの永世称号の保持も史上初で、この偉業が翌年の国民栄誉賞につながる。
本人30年以上棋士生活を続けていく中で、一つの大きな地点にたどり着くことができた。そのことには非常に感慨深く思っています 出典
国民栄誉賞、会長、そして再び盤へ
平成30〜
棋士として初の国民栄誉賞
首相官邸で安倍晋三首相から賞状と盾、記念品を受けた。囲碁で2度目の七冠独占を果たした井山裕太との同時受賞で、囲碁・将棋界では初の受賞となった。記念品は揮毫の機会が多い二人にちなんだ硯と筆だった。同年11月には紫綬褒章も受章している。
本人これを大きな励みとして、引き続き棋士として前向きに進んでいかなくてはいけないなという決意を新たにしました。 出典
竜王を失い、27年ぶりの無冠に
第31期竜王戦で挑戦者の広瀬章人にフルセットの末3勝4敗で敗れ、1991年の棋王獲得以来続いたタイトル保持は27年9か月で途切れた。連盟から「前竜王」を名乗るか問われたが辞退し、段位の「九段」を肩書に選んだ。翌2019年には通算1434勝で大山康晴を抜いて歴代単独1位となる一方、30年続いたタイトル戦への登場は31年目で途絶えた。
50歳で竜王戦に登場、タイトル100期はならず
竜王戦1組ランキング戦と決勝トーナメントを制し、50歳以上で初めて竜王戦七番勝負に登場した。2年ぶりのタイトル戦で、獲得すれば通算100期に届くシリーズだった。第4局の前日に無菌性髄膜炎で入院して日程がずれるなか、豊島将之との七番勝負は1勝4敗で終わった。
A級から初めて陥落、史上初の通算1500勝
2月4日、第80期A級順位戦8回戦で永瀬拓矢に敗れて2勝6敗となり、最終局を待たずに降級が決まった。A級在籍は名人在位9期を含む29期で、2021年度は14勝24敗とプロ入り36年目にして初の年度負け越しだった。迎えたB級1組の開幕戦で山崎隆之を82手で破り、通算1500勝(654敗2持将棋、勝率6割9分6厘)に到達した。歴代2位は大山康晴の1433勝である。
王将戦で藤井聡太に挑み、2勝4敗
前年11月に王将リーグを6戦全勝で制し、タイトル戦で初めて藤井聡太と相まみえた。世代を超えた対決は交互に星を分け、2勝2敗で第5局を迎えた。そこから2連敗して100期はならなかった。第2局は将棋大賞の名局賞を受け、この活躍で敢闘賞も得た。年度勝率も7年ぶりに6割を超えた。
日本将棋連盟会長に就任
棋士総会で理事に選ばれ、理事会で佐藤康光の後任の会長に選任された。任期は2年。師匠の二上達也、その師の渡辺東一、さらにその師の関根金次郎も会長経験者で、実質的に師弟四世代が連盟のトップを務めたことになる。この年に創設された50歳以上の公式戦・達人戦で初代達人となる一方、32期連続で在籍した竜王戦1組からは陥落した。
本人そして私はあと2年で棋士生活40年になります。棋士として、自分はどこまでできるのか。そこにチャレンジしていきたいですね。 出典
会長を1期で退任、棋士に専念
在任中は将棋連盟創立100周年事業と東西の将棋会館の新設移転を主導した。理事選への不出馬を表明したのち、通常総会限りで退任。後任には理事会の互選で清水市代女流七段が選ばれ、連盟史上初の女性会長となった。3月には順位戦でB級2組への降級が決まっていた。
本人まだ50代なので、棋士として頑張っていきたい。ファンの皆さんの期待に応えたい 出典
史上初の通算1600勝
朝日杯将棋オープン戦二次予選で千田翔太を破り、1600勝731敗、勝率6割8分6厘での到達。55歳1か月、四段昇段から39年11か月での達成だった。この年の王座戦では挑戦者決定戦まで進み、伊藤匠に敗れている。
本人40年間やってきた積み重ねが、一つの形になって良かったなと思う 出典
棋聖戦・王位戦の挑戦者決定戦に進む
会長退任後は10連勝を含めて勝率7割と好調で、20代・30代ばかりの王位リーグを紅組優勝で抜けた。5月1日の棋聖戦挑戦者決定戦は服部慎一郎に終盤で逆転され、5月28日の王位戦挑戦者決定戦では、研究会の相手でもある伊藤匠に敗れた。3年ぶりのタイトル戦出場と100期への挑戦は持ち越しとなった。
本人自分でも要因はよく分からないが、以前より将棋に費やせる時間は増えたかなと思う 出典
順位戦B級2組で戦いながら、タイトル100期を目指す
第84期順位戦B級2組を7勝3敗で終えたがB級1組復帰はならず、第85期も同じクラスで指している。タイトル獲得99期・タイトル戦登場138回は歴代1位のまま、100期目を懸けた挑戦を続けている。