岡山での原点と都城高校
平成10〜
岡山県備前市に生まれる
父が少年野球チーム「伊部パワフルズ」のコーチを務めており、小学1年生からこのチームで野球を始めた。
東岡山ボーイズで中学3年になってようやくレギュラーに
中学時代は内野手兼投手として東岡山ボーイズに所属したが、中学までエースですらなかった。3年生になってようやくレギュラーの座をつかみ、球速も130km/hに到達した。
地元を離れ宮崎県の都城高校へ進学、投手に完全転向
都城高校の森松賢容監督にスカウトされ、寮生活を送りながら野球に打ち込む。当初は内野手兼投手として入部したが、キャッチボールで見せた投球動作に素質を感じた監督の提案で投手に完全転向した。
— ドラフト会議でオリックスから4位指名を受け入団
契約金4000万円、年俸500万円(推定)で入団。都城高校からのNPB入りは1994年の福盛和男以来22年ぶりだった。当初は社会人チームへの内定が決まっていたが、志望届提出期限直前に方針転換してプロ入りを選んだ。
リリーフでの下積みと先発への転向
平成29〜
対千葉ロッテ戦でNPB初登板・初先発
5回1失点6奪三振の内容で勝敗はつかなかったが、初奪三振も記録。8月31日には初勝利を挙げた。
リリーフで10代史上初のシーズン30ホールドポイントを達成
開幕から救援投手として起用され、4勝2敗32ホールド1セーブ・防御率2.89の好成績。9月28日に左内腹斜筋損傷でシーズンを終えたが、新人王投票でリーグ2位となった。
先発転向後、自身初の完投・完封勝利
対埼玉西武戦で9回無失点(5被安打2四球11奪三振)の完封勝利。この年から先発として本格的に定着し、以後5年連続でシーズンWHIP0点台というパ・リーグ記録を継続させることになる。
WBSCプレミア12で日本代表として金メダル
セットアッパー的な役割も含め代表チームに貢献し、日本の優勝に貢献した。
オリックスのエース、NPB史上初の偉業
令和3〜
— 投手四冠を初達成、沢村賞・MVPを初受賞
最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率の投手四冠を令和初達成。沢村賞選考委員会で全会一致で初選出され、パ・リーグMVPも初受賞した。オリックスはリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズはヤクルトに敗れた。
東京オリンピックの野球日本代表として金メダル
予選のドミニカ共和国戦に先発し6回2安打9奪三振無失点と好投。準決勝の韓国戦にも先発し、チームの金メダル獲得に貢献した。
— 対埼玉西武戦で自身初のノーヒットノーラン、日本シリーズ優勝にも貢献
9回102球1四球無失点9奪三振の快投。この年も2年連続で投手四冠(史上初の複数回)を達成し、オリックスの日本シリーズ優勝にも貢献した。
WBC日本代表として世界一に貢献
準決勝のメキシコ戦で5回から登板し4奪三振。「これまでの野球人生で最高の経験」と語った。侍ジャパンの世界一に貢献した。
— 対千葉ロッテ戦で2度目のノーヒットノーラン、2年連続投手四冠を達成
9回102球2四死球無失点8奪三振。2年連続ノーヒットノーランは82年ぶり史上3人目。3年連続の投手四冠・沢村賞・パ・リーグMVPはいずれもNPB史上初の記録となった。11月5日にポスティングシステムでのMLB挑戦が承認された。
— ロサンゼルス・ドジャースと12年総額3億2500万ドルで契約
投手として当時のMLB史上最高額契約。オリックスへの譲渡金は5062万5000ドル。背番号はオリックス時代と同じ18を継続した。
ドジャースでの挑戦、二年連続世界一へ
令和6〜
— 韓国・ソウルでの開幕戦でMLBデビュー
MLB史上初となる韓国開催の開幕カード(対サンディエゴ・パドレス)第2戦に先発登板。同郷の大谷翔平とともにドジャースでの挑戦をスタートさせた。
右肩のインピンジメントで登録抹消
右肩の炎症により離脱。1カ月以上の離脱を経て復帰し、入団1年目からチームのナ・リーグ西地区優勝、リーグチャンピオンシップシリーズ優勝、ワールドシリーズ優勝に貢献した。
MLB自己最多となる12勝、被打率などリーグ1位の成績を残す
レギュラーシーズン30試合に登板し12勝、防御率2.49、201奪三振。被打率.183・被長打率.283・被OPS.539はいずれもメジャー1位となり、9月には自身2度目のピッチャー・オブ・ザ・マンスも受賞した。
— ポストシーズンで完投3試合、ワールドシリーズMVPを受賞し連覇に貢献
ナ・リーグ優勝決定シリーズでメジャー移籍後初完投勝利(日本人投手のポストシーズン完投は史上初)。ワールドシリーズでも2試合連続完投勝利を挙げ、日本人選手として松井秀喜以来史上2人目のワールドシリーズMVPに選出。ドジャースの2年連続世界一に貢献した。
2年連続の開幕投手に指名され、日本人投手初の開幕2年連続勝利投手に
本拠地でのアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦に先発し、6回2失点無四死球6奪三振の好投で勝利投手となった。
WBC侍ジャパンのエースとして出場も、準々決勝でチームは敗退
準々決勝のベネズエラ戦に先発。ロナルド・アクーニャに先頭打者本塁打を許すなど4回2失点で降板し、日本は5-8で逆転負けを喫して大会を去った。
— あと一人でパーフェクトゲームを逃す、45者連続アウトの快投
8回まで完全試合を継続していたが、味方のエラーで走者を許し、9回先頭打者に本塁打を打たれてノーヒットノーランも逃した。それでも前回登板から45人連続アウトを記録し、1920年以降ではヤスメイロ・ペティット(46者連続)に次ぐメジャー史上2位の大記録となった。
3年目もエースとして活躍を継続、サイ・ヤング賞候補に
6月27日時点で防御率2点台をキープしながら8勝目を挙げるなど、メジャー3年目もリーグ屈指の成績を残し続けている。